註十二、霍去病や耿弇には及びません(謙遜)
註12.
山陽公載記曰:瑀單騎走兾州,自歸袁紹,紹以為故安都尉。
吳錄載策上表謝曰:「臣以固陋,孤特邊陲。陛下廣播高澤,不遺細節,以臣襲爵,兼典名郡。仰榮顧寵,所不克堪。興平二年十二月二十日,於吳郡曲阿得袁術所呈表,以臣行殄寇將軍;至被詔書,乃知詐擅。雖輒捐廢,猶用悚悸。臣年十七,喪失所怙,懼有不任堂構之鄙,以忝析薪之戒,誠無去病十八建功,世祖列將弱冠佐命。臣初領兵,年未弱冠,雖駑懦不武,然思竭微命。惟術狂惑,為惡深重。臣憑威靈,奉辭伐罪,庶必獻捷,以報所受。」
(訳)
山陽公載記にいう、
陳瑀は単騎で冀州へと敗走し
自ずから袁紹へ帰属すると、
袁紹は彼を故安の都尉に任命した。
呉録に載録されている、
孫策が謝意を述べた上表にいう、
「臣は固陋(古いものに拘って)を以て
一人でわざわざ辺陲(国境)を
守ってまいりました。
陛下は高き恩沢を広く伝播され
些細な忠節をもお遺れになる事なく、
臣に(父・孫堅の)爵位を襲名させ
兼ねて名郡の太守の座を賜られました。
栄誉を仰ぎ、恩寵を顧みましたが
臣の堪え得るところではございませぬ。
興平二年(195年)十二月二十日、
呉郡の曲阿にて、袁術が上表書を奉呈し
臣は殄寇將軍を兼行致しましたが、
此度の詔書を被るに至りまして
そこで初めて(袁術が)擅に
詭詐したものだと知りました。
(殄寇將軍の位は)すぐ様捐棄しましたが
なお(偽りの将軍位を)用いたことに
悚悸(震えおののいて)しております。
臣は、年十七で
祜む所(父・孫堅)を喪失しまして
堂構を継承できず、
析薪を負うという戒めを
卑しめる事を懼れます。
霍去病が年十八で功績を打ち建て
世祖(光武帝)の諸将は
弱冠(二十歳)にて
天子を補佐したことなどは
誠に及びもつきませぬ。
臣が当初兵を領有致しました際
年はまだ二十に及ばず、
怯懦で、武も備わっておりませんでしたが
それでも、微命を尽くす
覚悟だけは決めておりました。
ひたすらに袁術は誑惑し、
深刻かつ重大な悪事を為しております。
臣は陛下のご威霊を憑みまして
正義の辞令を奉じて罪人を伐ち
たちまちのうちに必ずや捷報を献じ
此度の受命に報いる所存でございます」
(註釈)
霍去病は18でデビュー、
光武帝の配下の
1位の鄧禹はわずか24歳で三公、
4位の耿弇は23歳で健威大将軍、
7位の馮異はオッサンです。
(熱い馮異推し
でも26歳でほぼ揚州制覇してる
孫策も同様にヤバイと思います。




