九、基盤を固める
9.
盡更置長吏,策自領會稽太守,復以吳景為丹楊太守,以孫賁為豫章太守;分豫章為廬陵郡,以賁弟輔為廬陵太守,丹楊朱治為吳郡太守。彭城張昭、廣陵張紘、秦松、陳端等為謀主。
時袁術僭號,策以書責而絕之。
曹公表策為討逆將軍,封為吳侯。
(訳)
悉く長吏を再配置して
孫策は自ら会稽太守を領した。
再度呉景を丹陽太守、
孫賁を豫章太守に任じ、
豫章を分割して廬陵郡とし
孫賁の弟の孫輔を廬陵太守、
丹陽の朱治を呉郡太守とした。
彭城の張昭、
広陵の張紘・秦松・陳端らが
参謀となった。
時に袁術が帝号を僭称し、
孫策は書状を以ってこれを責め、
然るのち袁術との縁を絶った。
曹公は上表して孫策を討逆将軍に任じ
呉侯に封じた。
(註釈)
劉繇や笮融、王朗、厳虎、太史慈を
掃討した孫策は、信頼できる身内を
各所の行政の長として配置しました。
会稽太守 - 孫策
丹陽太守 - 呉景(叔父)
豫章太守 - 孫賁(従兄)
廬陵太守 - 孫輔(従弟)
呉郡太守 - 朱治(孫堅の元配下、父同然)
(豫章はまだこの時点じゃ
落ちてないので、形式的なモノ?
周瑜の身内の丹陽太守は無視か?)
参謀には張昭と張紘、
更に、数ページ前に張紘の言っていた
「同好の士」というのが、ここで出てきた
秦松や陳端の事なのでしょう。
弟孫権も196年には15歳となり、
朱治に孝廉に推挙されて、兄・孫策に
優れた献策を見せるようになったとか。
広い揚州を、たかだか2〜3年で
ほとんど平らげ、戦力を
瞬く間に充実させた孫策は
やはりとんでもないタマです。
しかし、孫策に勝手に身内を
太守に任命するような権限があるとは
どうも思えません。
単に自称してるだけかもしれないけど。
朝廷から任命された感じもないので
つまり……
袁術
「孫策くん、一生懸命頑張ったねぇ。
今度こそ、君を太守にするよ!
今まで約束守れなくてごめんね?
代わりに、君の身内をたくさん
太守にしてあげるから!」
って事だったら、いいなぁ♪
でもこの後、袁術の従弟の袁胤が
丹陽太守として派遣されてくるとあるので
やっぱりよくわからなくなる。
朝廷が任じた丹陽太守→周尚
袁術が任じた丹陽太守→呉景、のちに袁胤
孫策が任じた丹陽太守→呉景
こういうこと?
袁術はこのあと
ちゃっかりと皇帝に即位し
呂布と婚姻関係を結ぼうとして
逆にボコボコにされてしまうのでした。




