註七、孫郎の三条
註7.
江表傳曰:策時年少,雖有位號,而士民皆呼為孫郎。百姓聞孫郎至,皆失魂魄;長吏委城郭,竄伏山草。及至,軍士奉令,不敢虜略,雞犬菜茹,一無所犯,民乃大恱,競以牛酒詣軍。劉繇旣走,策入曲阿勞賜將士,遣將陳寶詣阜陵迎母及弟。發恩布令,告諸縣:「其劉繇、笮融等故鄉部曲來降首者,一無所問;樂從軍者,一身行,復除門戶;不樂者,勿彊也。」旬日之間,四面雲集,得見兵二萬餘人,馬千餘匹,威震江東,形勢轉盛。
(訳)
江表伝にいう、孫策はこの時、
官位や称号を有しているとはいえ
年が若かったので、士民は皆
彼のことを「孫郎」と呼んでいた。
百姓は孫郎が至ったと聞くと
皆魂魄を失い(肝をつぶして)
長吏は城郭を委棄して
山野へ逃げ隠れてしまった。
実際に孫郎が至ると、
兵士たちは命令を奉じて
略奪を行おうとはせず
鶏や犬(家畜)、野菜(作物)に至るまで
何一つ犯す所がなかったため
民衆は大喜びして、競って
牛肉や酒を持ってその軍を詣でた。
劉繇が敗走したのち、
孫策は曲阿へと入り将士の労を労って、
将の陳宝を遣って阜陵を詣でさせ、
母及び弟たちを迎えに行かせた。
恩徳の行き届いた布令を発し
諸県へと告知した。
「劉繇、笮融らの故郷の私兵で
来降し自首せんとした者は
一切罪を問わない。
従軍を願い出る者は、
一身が行けば、また門戸は
(賦役を)除くものとする。
従軍したくない者に
強制する事のなきように」
旬日(10日)のあいだに
四方から雲霞の如くに人が集まり
二万余りの兵と千余匹の兵を得た。
孫策の威風は江東を震わせ、
形勢は転じて盛んとなった。
(注釈)
孫堅パパが長沙に赴任した時と
よく似たエピソードです。
まだ21〜22歳の孫策は
「孫郎」と呼ばれてたとかなんとか。
戦争に勝った側が負けた側から
奪い尽くすのは、割に当たり前なのですが
ゆえに、略奪をしない
クリーンな軍隊は好まれます。
・劉繇と笮融に味方してた人達は許すよ
・一家で一人従軍すればじゅうぶんだよ
・軍役は強制しないよ
という三つのおふれを出して
孫策は一挙に衆望を味方につけたのでした。




