註六、牛渚の激戦
註6.
江表傳曰:策渡江攻繇牛渚營,盡得邸閣糧穀、戰具,是歲興平二年也。時彭城相薛禮、下邳相笮融依繇為盟主,禮據秣陵城,融屯縣南。策先攻融,融出兵交戰,斬首五百餘級,融即閉門不敢動。因渡江攻禮,禮突走,而樊能、于麋等復合衆襲奪牛渚屯。策聞之,還攻破能等,獲男女萬餘人。復下攻融,為流矢所中,傷股,不能乘馬,因自輿還牛渚營。或叛告融曰:「孫郎被箭已死。」融大喜,即遣將於茲鄉。策遣步騎數百挑戰,設伏於後,賊出擊之,鋒刃未接而偽走,賊追入伏中,乃大破之,斬首千餘級。策因往到融營下,令左右大呼曰:「孫郎竟云何!」賊於是驚怖夜遁。融聞策尚在,更深溝高壘,繕治守備。策以融所屯地勢險固,乃舍去,攻破繇別將於海陵,轉攻湖孰、江乘,皆下之。
(訳)
江表伝にいう、孫策は
長江を渡って劉繇の牛渚の陣営を攻め
邸閣(食料庫)の穀米や
戦具の盡くを得た。
この歳は興平二年(195)である。
この時、彭城の相の薛礼と
下邳の相の笮融は劉繇に身を寄せ
彼を盟主と仰いでおり、
薛礼は秣陵城に拠り、
笮融は県南に駐屯していた。
孫策は先に笮融を攻めて、
笮融も兵を出して交戦した。
孫策は五百余りの首級を挙げ、
笮融は即座に門を閉じて
思い切って戦おうとしなくなった。
そこで、長江を渡って薛礼を攻めると
薛礼は包囲を破って遁走し
樊能、于麋らは再度人々を糾合して
牛渚の屯営を襲撃して奪い取った。
孫策はこの事を聞きつけると
引き返して樊能たちを攻め破り
男女数万人を得た。
孫策は再び下って笮融を攻めたが
流れ矢が命中して腿を負傷してしまい
馬に乗ることができなくなった。
そのため、自ずと孫策は輿に担がれて
牛渚の陣営まで還ることになった。
或る者が叛いて、笮融に告げて言った。
「孫郎は矢を浴び、已に死んでしまいました」
笮融は大喜びして、即座に
部将の于茲を派遣して攻め入らせた。
孫策は、歩兵・騎兵の数百を遣って
戦いを挑み、伏兵をその背後に置いた。
賊が打って出てくると
鉾先も交えずに偽って逃げ出し、
賊が追撃して伏兵の中に入ると
そこでこれを大破して
千余りの首級を挙げた。
孫策はそうして
笮融の陣営の下まで到り
左右の者に命じて大声で叫ばせた。
「孫郎は竟に何をか云わん!!」
(孫策はここにいるぞ!!!!!!)
賊はこれを聞いて驚き恐れ、
夜中に遁走してしまった。
笮融は、孫策がなお
健在であることを聞くと
更に溝を深くし塁を高くして
守備態勢を整えた。
孫策は笮融の駐屯する地勢が
堅固であることを見ると、
そこで営舎を捨て去って
劉繇の別将を海陵で破り
転戦して湖孰や江乗を攻め
これらをすべて下した。
(註釈)
孫策ツエーーーー!!!!
「孫郎竟云何!」
(孫策ここにあり!!!!)
かっけぇええええええ!!!!
195年、
曹操が呂布と戦ってるころ
孫策(と袁術)は劉繇と戦ってたんですね。
袁術が徐州攻めたのは196年で、
それまでは地盤を固めていたと。
193〜194年ごろ
徐州は飢饉と戦乱で
メチャクチャに荒れ果てており、
下邳と彭城の相の薛礼と笮融は
混乱を避けて南下し、劉繇に身を寄せました。
が、この笮融という人物、
世話になった人物や友人を
私利私欲のために殺し続ける
とんでもない裏切り野郎なのです。
はじめは徐州の陶謙の配下にあって
兵糧や物資の監督に当たっていましたが
それらを着服して利益を貪り
寺院を建立して5000人を集めました。
曹操と陶謙が争って
徐州が混乱すると、笮融は
手勢を引き連れて広陵へ逃げ
広陵太守の趙昱に厚遇されますが、
広陵が栄えている事に目をつけた笮融は
あろうことか趙昱を殺害して
広陵を乗っ取ってしまいます。
下邳の薛礼とともに、
劉繇を頼って歴戦しますが
この友人の薛礼も利益に目が眩んで
あっさりと殺してしまい、
朱儁の子の朱皓も
彼の毒牙にかかって亡くなっています。
恩を仇で返すような奴は嫌いじゃ。
孫策をカッコよく書くために、
誇張されて悪人にされてるの?
とも思いましたが、
呉側の史書だけでなく、
魏書の陶謙伝でも、その
悪逆ぶりが書かれているので
これはウソじゃないと思います。
しかし孫策は
牛渚→県南→秣陵→牛渚→県南
→海陵→湖孰→江乗と
めちゃくちゃなペースで転戦していますが
このへんは周瑜伝にも書いてあるので
後半の3つあたりは
周瑜が担当してたのかもしれません。
このあと、孫策伝では書かれてませんが
孫策と太史慈との一騎打ちが入り
(太史慈伝)
孫策にこてんぱんにやられた劉繇は
曲阿を明け渡して
南南西の豫章まで落ち延びます。
(劉繇伝)
孫策の軍勢は数万規模まで膨れ上がり、
孫策は、これくらい人数がいれば
自分だけでも十分だと述べ、
周瑜に丹陽の鎮撫を命じました。
(周瑜伝)