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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第一、孫討逆(孫策)伝
197/603

六、孫策出陣

6.

術表策為折衝校尉,行殄寇將軍,兵財千餘,騎數十匹,賔客願從者數百人。比至歷陽,衆五六千。策母先自曲阿徙於歷陽,策又徙母阜陵,渡江轉鬬,所向皆破,莫敢當其鋒,而軍令整肅,百姓懷之。


(訳)

袁術は上表して孫策を折衝せっしょう校尉こういに任命し、

殄寇てんこう將軍を兼行させた。


兵士はわずか千余り、騎馬は数十匹で

賓客のうちで従軍を

願い出た者が数百人いたが

歴陽れきようへ到着する頃には

五〜六千人になっていた。


孫策の母はこれより先に

自ら曲阿きょくあから歴陽へと移ったが

孫策はまた母を阜陵ふりょうへと移らせ

長江を渡って転戦し、

向かう所全てで敵を撃破し

その鉾先を遮ろうとする者は無かった。


加えて軍令は行き届いていて厳粛で、

百姓は孫策に心を寄せた。


(註釈)

アニキ(孫賁)、オジキ(呉景)、

待ってろよ!!


孫策の快進撃が始まったぁぁああ。


孫堅パパも長沙から南陽まで向かう途中で

数万人が着いて来たと書かれてましたが


歴陽へ至る途上の孫策にも

五〜六千人に及ぶ人々が付き随いました。


大親友の周瑜はこの時、

従父の丹陽太守、周尚のもとを

見舞っていたらしく、

孫策に書状で呼び出されると

すぐに駆けつけてきてくれます。


周瑜伝によると、

周瑜と再会した孫策は


「吾得卿。諧也!」

(俺はお前を得られた、

願いが叶ったぜ!!)


と、大喜びしたとあります。


しかし、孫策の家族も

富春→寿春→舒→江都→曲阿→歴陽→阜陵と

かなりの回数引っ越してて大変です。

戦乱の時代だもんねぇ……

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