註三、喪中の張紘をスカウト
註3.
吳歷曰:初策在江都時,張紘有母喪。策數詣紘,咨以世務,曰:「方今漢祚中微,天下擾攘,英雄儁傑各擁衆營私,未有能扶危濟亂者也。先君與袁氏共破董卓,功業未遂,卒為黃祖所害。策雖暗稚,竊有微志,欲從袁揚州求先君餘兵,就舅氏於丹楊,收合流散,東據吳會,報讎雪恥,為朝廷外藩。君以為何如?」紘荅曰:「旣素空劣,方居衰絰之中,無以奉贊盛略。」策曰:「君高名播越,遠近懷歸。今日事計,決之於君,何得不紆慮啟告,副其高山之望?若微志得展,血讎得報,此乃君之勳力,策心所望也。」因涕泣橫流,顏色不變。紘見策忠壯內發,辭令慷慨,感其志言,乃荅曰:「昔周道陵遲,齊、晉並興;王室已寧,諸侯貢職。今君紹先侯之軌,有驍武之名,若投丹楊,收兵吳會,則荊、揚可一,讎敵可報。據長江,奮威德,誅除羣穢,匡輔漢室,功業侔於桓、文,豈徒外藩而已哉?方今世亂多難,若功成事立,當與同好俱南濟也。」策曰:「一與君同符合契,同有永固之分,今便行矣,以老母弱弟委付於君,策無復回顧之憂。」
(訳)
呉歴にいう、
初め、孫策が江都に在った時
張紘は母の喪中にあった。
孫策は数度張紘を詣で、
世の処務を咨りて述べた。
「今漢祚は中道に衰微し
天下は紛擾して、英雄・俊傑らは
各々衆を擁して私利を営んでおり
いまだこの危難を扶け
禍乱から救済する事の出来る者は
現れておりません。
先君(亡父・孫堅)は
袁氏と共同して董卓を破り、
功業がいまだ成し遂げられぬうちに
黄祖に害される所となり、
卒してしまいました。
私は若輩かつ暗愚と雖も
密かに微志を抱いており、
袁氏に従い、揚州に先君の
余兵を求めんと欲して
丹陽に於いて舅氏(呉景)に就き
散り散りになった兵を糾合し、
東の呉会地方に身を寄せ
讐を報じ恥を雪いで、朝廷の
外藩たらんと考えております。
貴君は如何様にお考えですか?」
張紘は答えて述べた。
「私は素より浅学非才で
今は衰絰(喪服)の中に居りまして、
ご盛略を奉賛する事は致しかねます」
孫策は言った。
「貴君の高名は広く聞こえており、
遠近の者が懐き、帰属しております。
今日、事を計るは貴君の決断一つであり
どうして憂慮し啓告して
高山の如く仰望する(我々の)
意に副うてはくれぬのですか?
もし私の寸志が遂げられ
血族の仇に報復することが出来たならば
それは即ち貴君の勲功であり、
策が心より望む所であります」
孫策はそうして涕泣し
止め処なく涙を溢れさせたが、
その顔色が変わる事はなかった。
張紘は、
孫策の忠節と勇壮さが内心より発され
言葉遣いにも義憤が顕われているのを見て、
その志操と言葉に感じ入り、
そこで、答えて述べた。
「昔、周国の道が陵遅(衰微)すると
斉・晋が並び興り、王室は安寧となって
諸侯は(再び)貢納して、
職務に励むようになりました。
今、君は先公(孫堅)の道を継がれ
驍武の名声がお有りになります。
若し丹陽に身を投じられて
呉会の地にて兵を糾合されれば
則ち荊州・揚州を統一して
仇敵に報讐する事ができましょう。
長江を拠点に威徳を奮わせ、
穢れた者どもを誅して除き去り
漢王室を匡輔されれば
その功業は桓公、文公に並び
どうして外藩であるだけに
留まるでしょうか?
今まさに世は乱れて多難であり
若し功を成し事業を起こさんとするならば
同好の士とともに
南へ渡りたくと存じます」
孫策は言った。
「貴君と考えが一致し
謀を同じくしたからには、
永く、固い契りを結びたく。
今、直ちに出発致しますが
老母や幼い弟たちを貴君に付託し
私は再びの後顧の憂いを
無くしたく存じます」
(註釈)
張昭(子布)と張紘(子綱)は
演義では「江東の二張」と謳われる
孫呉を代表する文官・参謀で、
ゲームの三國志では
毎回「政治」のパラメーターが
95を超えてくる俊才です。
(名前も年代も近いですが
血縁ではありません)
張紘は中原の戦乱を避けて
南へ遷ってきた名士の一人で、
孫堅パパより2歳年上、
このとき40歳代前半です。
劉備は20歳下の白面の書生のもとまで
熱心にスカウトに行きましたが、
孫策は20歳上の張紘に
泣きながら「力を貸してください!」と
頼みに行ったんですね。カックイイ!!
孫策の話を聞く限り、
・父孫堅のカタキを討ちたい
(二の轍を踏まぬよう優秀な参謀が欲しい)
・漢王朝の譜代として手柄を立てたい
(中央とパイプのある南遷名士を味方に)
・留守を任せられる人材が欲しい
(母と幼い孫権らの面倒を見て貰える)
この三つの目的を果たす上で
必要な人材が張昭や張紘だったのです。
張紘は文書の作成・処理能力に長けており
詩や賦などを多く書き遺し、
朝廷への上奏文なども
彼が担当したと言われております。
孫策は勿論のこと、弟の孫権も
張昭のことは「張公」
張紘のことは「東部」と呼んで
特別な敬意を示していたそうです。