二、陶謙に嫌われ、揚州の袁術をたよる
2.
徐州牧陶謙深忌策。策舅吳景,時為丹楊太守,策乃載母徙曲阿,與呂範、孫河俱就景,因緣召募得數百人。興平元年,從袁術。術甚奇之,以堅部曲還策。
(訳)
徐州牧の陶謙は深く孫策を忌み嫌っていた。
孫策の舅(母の弟)の呉景は
この時丹陽太守であったが、
孫策は母を連れて曲阿までゆき、
呂範、孫河とともに呉景に就き
縁故による召募で数百人を得た。
興平元年(194)、袁術に従った。
袁術は孫策を甚だ奇とし
孫堅の私兵を孫策に返してやった。
(註釈)
陶謙はなぜに孫策を嫌ってるの?
陶謙という人も、実情がけっこうナゾです。
劉備の味方、曹操の敵、孫堅の味方?
っていう感じなので、三国の史書それぞれで
書かれ方が違っており、いい人なのか
悪い人なのか、微妙によくわからないんです。
袁術-孫堅-公孫瓚-陶謙は
味方同士だったはずなんですが、
後漢書では袁術が勝手に
徐州牧を名乗ったとあるので
これが陶謙の気に障ったのかな。
陶謙はその後、勝手に劉備を
豫州刺史に任命したりしていて、
独立の動きを見せているので
そこからはアンチ袁術になったと
考えていいんでしょうか。
だから、袁術の手下だった孫堅の
その息子も敵だーー!!!!って事で…….
故・孫堅が率いていた兵は、
甥の孫賁が引き継ぐ事になり、
袁術が管理するようになって、
そのあと、孫堅の遺児の孫策に
見込みがありそうだったので
彼に改めて配属させた……
という解釈で合ってるかな?
演義では、伝国璽を袁術に渡して
堅パパの軍勢を返還してもらう
形になっています。
呉には、世襲制ならぬ
襲兵制というのが存在したらしく、
武将が死んでしまったときに、
その子供や兄弟などが
兵権を引き継ぐというルールがあり
私兵集団の連合みたいな
側面を持っていたそうです。
メリットデメリットが
めちゃくちゃはっきりしてそうな
システムですね。