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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第一、孫討逆(孫策)伝
189/603

註一・二、断金の交わり、父の爵位イラネ

註1.

江表傳曰:堅為朱儁所表,為佐軍,留家著壽春。策年十餘歲,已交結知名,聲譽發聞。有周瑜者,與策同年,亦英達夙成,聞策聲聞,自舒來造焉。便推結分好,義同斷金,勸策徙居舒,策從之。


(訳)

江表伝にいう、

孫堅は朱儁しゅしゅんの上表によって佐軍となり

家族を寿春に留め置いた。


孫策は当時十余りの歳で、

已に名の知れた人物と交誼を結び

彼の名声は広く聞こえていた。


周瑜という者がおり、孫策と同い年で

彼もまた若くして英邁闊達であった。


周瑜は孫策の評判を聞き

自ら舒から来たりて孫策の元を訪れた。


たちまちに二人は仲良くなり

心を同じくすることは

金属を断ち切る程であった。


周瑜は、孫策に対して

舒へ住居を移すことを勧め

孫策はこれに従った。


(註釈)

孫策と周瑜の「断金の交わり」です。


元ネタは易の一節で、

二人が心を同じくすれば、

その鋭きこと、金をも断つ!


という、かっこいいフレーズです。



孫堅の実家は富春ふしゅんにありましたが

黄巾の乱が起こるに及んで

寿春じゅしゅんに移ってたんですね。


寿春は揚州の治所(県庁所在地的な)

みたいです。



そのあと孫堅は辺章・韓遂討伐のため

遥か西の涼州まで行って、

更に荊州南部の長沙ちょうさに赴任してるので

揚州に置いてきた家族とは

なかなか会う機会が無さそうです。



三男の孫翊そんよくが黄巾の乱と同年の生まれで

その同母弟の孫匡そんきょうは生年不詳ですが

少なくとも長沙に赴任する187年以前に

生まれてる可能性が高い事になります。



孫権はその時まだ数えで6歳なので

家を空けてばかりのお父さんの印象が

あまり無かったかもしれません。


成長した孫権は、年長者との接し方に

四苦八苦してる印象を受けるんですが

父親と接する機会が少なかったからかも。


註2.

魏書曰:策當嗣侯,讓與弟匡。


(訳)

魏書にいう、

孫策は孫堅の爵位を嗣いで

侯に当たることになったが、

弟の孫匡に爵位を譲った。



(註釈)

孫堅パパの生前の爵位は烏程侯でした。

孫策はこの爵位を弟に譲ったとありますが、


前のページで考察した通りなら

孫匡は185〜187年生まれくらいの筈で

孫堅が亡くなったとき、

どう多く見積もっても

8歳以上にならないくらいの子供です。



殆どパパの爵位は

有名無実化してたんでしょうかね。


90年後くらいに呉が滅んだとき、

最終皇帝の孫皓も、

烏程侯の爵位を与えられています。

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