一、各地を転々とする
わずかな期間で呉会地方を平定し
その覇気は全中華を震え上がらせたという
孫呉の若獅子、孫策伝です。
1.
策字伯符。堅初興義兵,策將母徙居舒,與周瑜相友,收合士大夫,江、淮間人咸向之。堅薨,還葬曲阿。已乃渡江居江都。
(訳)
孫策はあざなを伯符という。
孫堅が義兵を興した当初、
孫策は母を連れて舒に転居した。
周瑜と互いに友となり
士大夫を糾合して、
長江・淮水の間の人々は
皆、孫策に心を寄せた。
孫堅が薨ずると、
曲阿に還りて葬った。
その後、長江を渡って江都に居した。
(註釈)
孫堅パパが長沙に赴任して
然るのちに董卓討伐の兵を挙げたとき、
孫策と母親の呉夫人は舒に移りました。
従兄の孫賁は孫堅とともに
戦に出てますが、孫策はこの時
15〜16歳なので、まだ
戦力としてカウントされてなくても
無理はありません。
「天地を喰らう」や「蒼天航路」では
孫策は留守番せず、パパに付き従ってます。
その方が絵になるもんね。
呉夫人も孫堅と離れて舒にいたのなら、
山陽公戴記に書いてあった
「袁術が孫堅の妻を人質にして
伝国璽を奪った」
という説の信憑性が更に下がりました。
ここで言う「孫堅の妻」というのは
孫朗を生んだという後妻の方を
指してるのかもしれませんが
やはり、孫堅は初めから伝国璽など
拾ってなかったんだと思います。
廬江(舒)には後漢の名門である
周家が居を構えており、
孫策は周家の出で、同い年の
周瑜とこの時に仲良くなります。
ただ、廬江太守の陸康は
孫策が会いに行っても
顔すら見せなかったらしく
孫策はこのことを遺恨に思ったそうです。
若い頃の劉備だったら
その場で陸康の首根っこ引っ掴んで
しばき倒してそう。