表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
淡々三国志  作者: ンバ
呉書第一、孫討逆(孫策)伝
188/603

一、各地を転々とする

わずかな期間で呉会地方を平定し

その覇気は全中華を震え上がらせたという

孫呉の若獅子、孫策伝です。

1.

策字伯符。堅初興義兵,策將母徙居舒,與周瑜相友,收合士大夫,江、淮間人咸向之。堅薨,還葬曲阿。已乃渡江居江都。


(訳)

孫策そんさくはあざなを伯符はくふという。


孫堅が義兵を興した当初、

孫策は母を連れてじょに転居した。


周瑜と互いに友となり

士大夫を糾合して、

長江・淮水の間の人々は

皆、孫策に心を寄せた。


孫堅が薨ずると、

曲阿きょくあに還りて葬った。


その後、長江を渡って江都に居した。


(註釈)

孫堅パパが長沙ちょうさに赴任して

然るのちに董卓討伐の兵を挙げたとき、

孫策と母親の呉夫人はじょに移りました。


従兄の孫賁そんふんは孫堅とともに

戦に出てますが、孫策はこの時

15〜16歳なので、まだ

戦力としてカウントされてなくても

無理はありません。


「天地を喰らう」や「蒼天航路」では

孫策は留守番せず、パパに付き従ってます。

その方が絵になるもんね。


呉夫人も孫堅と離れて舒にいたのなら、

山陽公戴記に書いてあった

「袁術が孫堅の妻を人質にして

伝国璽を奪った」

という説の信憑性が更に下がりました。


ここで言う「孫堅の妻」というのは

孫朗を生んだという後妻の方を

指してるのかもしれませんが

やはり、孫堅は初めから伝国璽など

拾ってなかったんだと思います。


廬江ろこう(舒)には後漢の名門である

周家が居を構えており、

孫策は周家の出で、同い年の

周瑜とこの時に仲良くなります。


ただ、廬江太守の陸康りくこう

孫策が会いに行っても

顔すら見せなかったらしく

孫策はこのことを遺恨に思ったそうです。


若い頃の劉備だったら

その場で陸康の首根っこ引っ掴んで

しばき倒してそう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ