註二、廬陵占拠
註2.
江表傳曰:時丹楊僮芝自署廬陵太守,策留賁弟輔領兵住南昌,策謂賁曰:「兄今據豫章,是扼僮芝咽喉而守其門戶矣。但當伺其形便,因令國儀杖兵而進,使公瑾為作勢援,一舉可定也。」後賁聞芝病,即如策計。周瑜到巴丘,輔遂得進據廬陵。
(訳)
江表伝にいう、時に丹陽の僮芝が
廬陵の太守に署されており
孫策は孫賁と、その弟の孫輔に
兵を所領させて南昌に留まらせた。
孫策は孫賁に謂った。
「兄貴(孫賁)は今、豫章を拠点にしているが
これは、僮芝の咽喉を抑えて
その門戸を見張っている事になる。
形勢の善し悪しを伺って
(有利と判断したなら)
それに因って国儀(孫輔)に命じて
武装した兵を発進させ、
公瑾(周瑜)の軍勢に援護させてくれ。
そうすりゃ、一挙に平定できるぜ!!」
その後、孫賁は僮芝が病気になったと聞き
ただちに孫策の計の通りにした。
周瑜は巴丘まで到り、
孫輔はかくて進軍して
廬陵を占拠する事ができた。
(註釈)
孫策のセリフは
パワフルな感じで訳してみました。
「孫策と周瑜が親友同士」というのは
江表伝に書かれてることで、
孫策は「公瑾」と字で呼んでます。
孫策伝では、
豫章を分割して廬陵にして
孫輔を廬陵の太守にした……
と書いてあり、僮芝が出てくるのは
199年あたりです。
孫賁伝は以上でおしまいです。
短かったので、年表にして
事績を纏めるのと、
個人評は割愛します。
次のページから、孫策伝に入ります。