三、豫章太守のまま卒す
3.
時策已平吳、會二郡,賁與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖,軍旋,聞繇病死,過定豫章,上賁領太守,後封都亭侯。建安十三年,使者劉隱奉詔拜賁為征虜將軍,領郡如故。在官十一年卒。子鄰嗣。
(訳)
時に孫策は呉・会稽の二郡を已に平定しており
孫賁は孫策とともに廬江太守の劉勳と
江夏太守の黄祖を征ち、軍が凱旋する途上で
劉繇が病死したとの報せが聞こえたため
豫章を通過した時にそのまま平定した。
上表して孫賁が(豫章)太守となり
のちに都亭侯に封じられた。
建安十三年(208年)、
使者の劉隠が詔勅を奉じて
孫賁は征虜将軍に拝され
郡太守の座はもとのまま有した。
在官十一年で卒した。
子の孫鄰が後を嗣いだ。
(註釈)
太史慈伝だと、太史慈が
豫章の旧劉繇人員の接収に
派遣された感じで書かれているよ。
袁術が崩御したのち、
残された家族は廬江太守の
劉勳を頼ったとされます。
孫策は劉勲を破って
袁術の家族の面倒を見たと
袁術伝の最後の方にありました。
黄祖は、孫堅・孫策・孫権の
孫家三代と敵対する因縁の相手です。
孫権がようやく黄祖を破ったのは
赤壁の直前くらいで、
孫堅の死から15年ほど経ってます。
甘寧ももとは黄祖の配下でした。
孫賁は、孫堅の兄の子で
孫策に兄と呼ばれる場面があるので
孫策より5歳程度年長と仮定して
170年生まれくらいと推察すると
亡くなった時、アラフォーの計算になります。
やっぱり、孫家の人たちって短命だなぁ。
このあと、孫賁の子の孫鄰伝が続きますが
孫策と絡まないので、飛ばします。
後漢書袁術伝に登場した
カッコイイ舒仲応(らしき人)も
孫鄰伝に出てきます。