二、袁術を見限る
2.
為揚州刺史劉繇所迫逐,因將士衆還住歷陽。頃之,術復使賁與吳景共擊樊能、張英等,未能拔。及策東渡,助賁、景破英、能等,遂進擊劉繇。繇走豫章。策遣賁、景還壽春報術,值術僭號,署置百官,除賁九江太守。賁不就,棄妻孥還江南。
(訳)
(やがて孫賁は)
揚州刺史の劉繇に圧迫され
追い払われる所となり、
将兵や人々を率いて歴陽へ戻った。
しばらくして、袁術は再び孫賁を派遣し
呉景と共同で樊能・張英らを
攻撃させたが、抜く事はできなかった。
孫策が東へ渡るに及んで、
孫賁・呉景を援助して
樊能・張英を撃破し、
かくて劉繇のもとへ進撃した。
劉繇は豫章へ逃げ込んだ。
孫策は孫賁・呉景を遣って
寿春まで帰らせ、袁術に報告させた。
袁術が帝号を僭称すると
百官を処置し、
孫賁を九江太守に除した。
孫賁は太守に就任せず、
妻子を捨てて江南へ帰ってしまった。
(註釈)
孫堅の奥さんの呉夫人。
その、弟に当たるのが呉景です。
孫堅の義理の弟(呉景)
孫堅の甥(孫賁)
が、ともに孫堅の董卓討伐に従って
戦功を立てていたようであり、
この二人が、揚州時代の
袁術の主力っぽい雰囲気です。
揚州刺史にはもともと陳温がいて、
後漢書では袁術が陳温を殺し、
英雄記では陳温が病死して、
揚州刺史は空位になりました。
袁術が任命した揚州刺史の陳瑀は、
陳珪らと同族で、袁術アンチに回り……
劉繇は、そんな情勢の中で
朝廷に任命された正式な揚州刺史です。
(といっても李傕政権だけど)
立派な皇族、かつ、一族から
三公を輩出した事もある、超名門出でした。
当初は他でもない孫賁と呉景が
劉繇を曲阿に招いた……と
書かれているので、赴任した頃は別に
袁術とは敵対してなかったのですが、
明らかに朝廷を無視して
勝手に官職を配っている袁術を見て
黙って見過ごせなくなったのか、
後になって、袁術の息がかかった
孫賁(丹陽都尉)と呉景(丹陽太守)を
追い払ってしまいます。
劉繇の配下には、
豪傑、太史慈、月旦評の許劭、
のちに孫呉で名を為す孫劭、是儀
滕胤に連なる滕耽、滕冑、
もと陶謙の配下、笮融、薛礼
水戦に長けた張英、樊能、于麋など
なかなかの陣容が整っており、
もし孫策という怪物さえ出現しなければ
袁術を抑えて揚州を支配するくらいの
ポテンシャルは、普通に持ってたと思います。
会稽太守の王朗諸共
劉繇を打ち破って
迅速に呉を平定した孫策は
そのまま独立に動いてゆきます。
袁術が皇帝になると
孫賁は九江太守に任命されますが
就任せず、出て行ってしまいました。
しかも妻子まで捨てて……
弟にあんなに優しかった人が
家族を捨ててしまうとは、
それほど袁術に愛想が尽きたんでしょうか。
なまじっか袁術に期待して援助しただけに
蓋を開けたら僭称する様な反逆者だった分
その落胆ぶりが凄まじそうです。
アンチの半分は元ファンと同じ理屈で
かくして、孫賁は袁術を見捨てました。