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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第六、孫賁伝
183/603

一、弟思いの伯陽

孫堅に続いて、孫策伝を読んでいきます。


その前の下準備として、

孫堅の甥っ子、孫賁伝を読みます。


めちゃくちゃ短いので、すぐ終わります。

呉書第六、孫賁伝です。


1.

孫賁字伯陽。父羌字聖壹,堅同產兄也。賁早失二親,弟輔嬰孩,賁自贍育,友愛甚篤。為郡督郵守長。堅於長沙舉義兵,賁去吏從征伐。堅薨,賁攝帥餘衆,扶送靈柩。後袁術徙壽春,賁又依之。術從兄紹用會稽周昂為九江太守,紹與術不恊,術遣賁攻破昂於陰陵。術表賁領豫州刺史,轉丹楊都尉,行征虜將軍,討平山越。


(訳)

孫賁そんひはあざなを伯陽はくようという。

父の孫羌そんきょうはあざなを聖台せいだいといい、

孫堅の同母兄である。


孫賁は早くに両親を亡くし、弟の孫輔そんほ

まだ孩嬰がいえい(赤児)だった事から

孫賁自らが弟を養育し、

友愛ぶりは甚だ篤かった。


(やがて)郡の督郵守長となった。


孫堅が長沙で義兵を挙げると、

孫賁は官職を去って征伐に従った。


孫堅が薨去すると、

孫賁が代わってその余勢を統率し、

その霊柩れいきゅうを(故郷まで)護送した。


後になって、

袁術が寿春に根拠地を移すと

孫賁もまたそれに従った。


袁術の従兄の袁紹が

会稽かいけい周昂しゅうこうを用いて九江太守とすると

袁紹と袁術は不和となり、

袁術は孫賁を遣って周昂を攻めさせ

陰陵いんりょうにおいてこれを撃破した。


袁術は上表して孫賁を豫州刺史とし、

丹陽の都尉に転出し

征虜将軍を兼行して

山越さんえつの平定に当たった。


(註釈)

亡くなったご両親に代わり

幼い弟の面倒を見るなんて……

孫賁そんひ、立派なお兄さんですねぇ。

成宮くんみたい。


そうして成長した弟の孫輔そんほ

のちのち孫権を裏切る事になるのですが……


取り敢えず、孫賁伝を読みながら、

孫堅が亡くなった後の流れを追います。


(大前提として、孫堅は

191年に亡くなった説を採用します)



孫堅が生きてる時は

連戦連勝の袁術でしたが

孫堅亡き後は苦戦を強いられます。


公孫瓚こうそんさん(劉備)や陶謙とうけん

更には於夫羅おふら李傕りかくとも結んで

袁紹チームに対抗しますが、

陳留や匡亭きょうていで、曹操に

ボコボコにされてしまい

193年に揚州へと拠点を移します。


孫堅が生きてたら

陳留の戦に参加してる筈なので、

やはり、英雄記の記述はおかしい。


袁術が揚州に逃げ込んだとき、

(袁術の)揚州刺史の陳瑀ちんうが袁術を拒んだので

袁術はいったん、陰陵いんりょうへ向かってから

軍勢を糾合して勝利した、と

「英雄記」にあります。


この時働いてくれたのが孫賁そんひで、

袁術が曹操に敗れたあと

再起するのがかなり早かったのは

彼の働きが大きかった、という事になります。


191年に孫堅が亡くなったと定めると

孫賁は、193年までの2年間は

袁術とは行動を共にしてない事になります。


叔父(孫堅)の元上司が、自身の地元まで

落ち延びようとしてきたので

助けてあげた感じなんでしょうか。

というより、孫賁がいたからこそ

袁術は揚州まで逃げたのかも。


袁術はその後、

孫賁を豫州刺史に任命しました。

生前の孫堅と同じポストです。


「名実ともに孫堅の後釜を得たぞ!」

っていう袁術の気持ちが

見えるような気がします。


が、あとあと孫賁は

割と露骨に袁術を見捨てます。

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