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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第一、孫破虜(孫堅)伝
182/603

まとめ

孫堅伝(破虜伝)は以上です。

事績をまとめます。


・155年?

孫堅生まれる。

(156、157年説もあるが

155年説が最有力)



母親が孫堅を懐妊するに及んで、

腸が飛び出て呉の昌門に

巻きつくという夢を見て、

その内容をおそれて

隣の家のおばさんにこの事を告げると


「どうしてしるしでないとわかるのよ。

(吉夢に違いないわ!)」

と言われる(呉書)



・171年?(17歳)

父とともに船に乗って銭唐せんとうへ至った際に

ちょうど海賊の胡玉こぎょくらが

匏里ほうりに上陸し、商人達の財物を掠め取り、

それを岸辺で分け合っている場に出くわし

制する父を尻目に、機転を利かせて

海賊たちを追い払って

首一つ取って戻って来る。


この一件で名が広まり

府から召されて仮の尉に署される。



・172年(18歳)

会稽かいけいの妖賊の許昌きょしょう句章くしょうにおいて起ち、

陽明ようめい皇帝」を自称し、

その子の許韶きょしょうとともに

諸県を扇動し、数万の衆人を集める。


孫堅は郡の司馬として勇士を募り

千余人を得て、州郡を糾合して

許昌を討伐する。


刺史の臧旻ぞうびんが功績を書き連ねて上表し、

詔書によって孫堅は塩瀆えんとくの丞に除され、

数年後に盱眙くいの丞に移り、

また、下邳かひの丞に移る。


孫堅は三つの県の補佐官を歴任し、

所在では称賛されており、

吏民は彼と親しく付き合う。

郷里の旧知の者や、好事家こうずかの少年で

往来する者は常に数百人おり、

まるで自分の子弟の如く接する(江表伝)



・184年(30歳)

黄巾賊の総帥の張角ちょうかくが魏郡で決起し

三月甲子(かっし)

三十六万が時を同じくしてともに発し、

天下は饗応して郡県を焼き払い、

(各県の)長官が殺害される。


漢は、皇甫嵩こうほすう朱儁しゅしゅんを遣って

黄巾を討伐させる。


朱儁の上表により孫堅は

その軍の佐軍司馬となり、

孫堅は郷里の若者たちを連れ、

旅の諸商人及び

淮水・泗水で精兵を募って

合わせて千人を集めて、

朱儁とともに奮戦して敵を撃つ。


汝南・潁川の賊を圧迫し、

孫堅は先んじて宛の城壁に登って入城し

孫堅の手勢も大挙して、黄巾を大破する。


朱儁が戦況を具上して

孫堅は別部司馬に拝される。


孫堅は勝ちに乗じて西華で深入りし、

きずを受けて落馬してしまい、

部下たちも散り散りになって

その所在もわからなくなったが

孫堅の騘馬あしげが、部下たちに

急を知らせたために事なきを得る。

発見された孫堅は軍営に連れ帰られ

十数日して創がいささか癒えると

再び戦に出る(呉書)



・185〜186年(31〜32歳)

辺章へんしょう韓遂かんすいが涼州で叛乱を起こし、

董卓が討伐に当たるも

戦果を挙げられず。


中平三年(186年)になって

漢は司空の張温ちょうおんに車騎将軍を兼行させ

西方の辺章らの討伐に当たらせる。


張温は上表して孫堅を参軍として

長安に駐屯し、詔書を以て董卓を召したが、

董卓はかなり時間が経ってから現れ

不遜な態度を取ったために、

孫堅が董卓を殺すように耳打ちするも

張温が聞き入れる事は無く終わる。


辺章と韓遂は大軍が至ったと聞いて

離散してしまい、降伏を乞う。



・187年(33歳)

孫堅は議郎を拝する。


長沙の賊の区星おうせい

将軍を自称し、一万余りの人数を集めて

城邑じょうゆうを攻囲していたため

孫堅がその討伐の任務に当たり

長沙太守となる。


孫堅は長沙郡に到ると

一ヶ月の間に区星らを破り、勝利する。


周朝しゅうちょう郭石かくせきもまた

零陵れいりょう桂陽けいようの衆徒を統率して蜂起し、

区星と互いに呼応していたが

孫堅に破られる。


この功績により、

孫堅は烏程侯に封じられる。


孫堅が赴任してくると

長沙の衆人は恐れ戦いて服属する。

孫堅は能吏を任用し、

役人らに命を下して述べる。

「良民を謹んで厚遇せよ。

官曹(役所)は、文書によって治め

必ずや遵法せよ。

盗賊は太守わたしに回付せよ」

(魏書)


・187〜188年?

廬江ろこう太守の陸康りくこうの従子《甥》が

宜春ぎしゅんの長に就いており、

賊を攻撃するに当たって

使いを遣って孫堅に救援を求める。


主簿が孫堅を諌めたが

孫堅は振り切って救援に赴き

賊は孫堅の援軍が来ると聞いて

逃げ出してしまう(呉録)


・189〜190年(35〜36歳)

霊帝が崩御し、董卓が朝政を壟断ろうだんする。

諸州郡では揃って

董卓を討たんとする義兵が興り

孫堅もまた挙兵する。


孫堅は董卓の専横を聞いて

「昔、張温どのが俺の言うことに

従っていれば」と嘆く(江表伝)


荊州刺史の王叡おうえい

兼ねてから孫堅を侮っていたため

孫堅は荊州を通過した際、彼を殺害する。


王叡が董卓討伐の兵を挙げようとした際

兼ねてから不仲であった

武陵太守の曹寅そういんをまず

殺すことを宣揚する。

曹寅は懼れて、

案行使者・光祿大夫の温毅おんきの檄文を

偽造して孫堅に送り

孫堅は兵を整えて王叡を襲撃する。

王叡は追い詰められ、

金を削って服毒自殺する(呉録)


南陽に至る頃には

孫堅に従う者は数万人に及び、

孫堅は太守の張咨と酒宴を開く。


宴もたけなわとなった頃

長沙の主簿が入室してきて

張咨の罪状を弾劾したため、

孫堅は逃げようとする張咨を

引き摺り出して処刑する。


この事から、南陽で

孫堅の要求が通らない事は無くなる。


孫堅は南陽に到って

太守の張咨に檄文を送り

軍糧を要請するも、張咨の主簿が

反対したために、果たされず(献帝春秋)


張咨は軍糧を供給しないばかりか

孫堅と会おうとすらせず、

孫堅は彼が後難となることを恐れ

仮病を使って誘き寄せ、これを斬る(呉歴)


孫堅は魯陽で袁術と見え、

袁術は上表して孫堅を破虜将軍に任じ

豫州刺史を領させる。


袁術は上表して

孫堅を中郎将に仮す(献帝春秋)


董卓討伐の軍を進めるに当たって

長史の公仇称こうきゅうしょうを派遣して

兵を率いさせて荊州へ帰らせ

軍糧の督促に従事させる。


公仇称の送別会の折に

董卓が歩騎数万を派遣するも

孫堅は泰然と対応し、

董卓の兵は、孫堅の士卒が

甚だ整っているのを見ると、

思い切って城を攻めようとはせず

そのまま引き返す。


・190〜191年(36〜37歳)


孫堅が梁東に移って屯営すると

董卓の大軍の攻撃を受け

孫堅は数十騎とともに囲みを破って脱出。


孫堅はトレードマークの赤い頭巾を

側近の祖茂そもにかぶらせて

董卓軍の追撃を振り切り、

祖茂は追い詰められて下馬し、

孫堅の幘を家の間の焼けた柱に被せ

草の中へと伏せ隠れ、落ち延びる。


孫堅は再び兵を収集させ

陽人にて董卓の軍を大破し

その都督の華雄らを破り、獄門に晒す。


孫堅は董卓を討つため

梁県りょうけん陽人ようじんへと向かい

董卓の方も歩騎五千を派遣し

陳郡太守の胡軫こしんを大督護、

呂布を騎督として

その他多くの将校・都督の者に

孫堅を迎え撃たせる。

胡軫は陽人から数十里の広成に到るも

せっかちな性格で人望が無く、

反感を抱いていた呂布ら諸将から

誤報を流され、戦果のないまま

撤退していった(英雄記)


この時、孫堅と袁術の仲を割くものがあり、

袁術は懐疑して、軍糧を送らなくなる。


或る者が袁術に

「孫堅が若し洛陽を得たなら、

二度と制御できますまい。

これでは狼(董卓)を除いて

虎(孫堅)を得るようなものです」

と言ったとされる(江表伝)


孫堅は陽人から百余里離れた

魯陽まで袁術に直談判にゆき、

わたしが身をなげうって顧みないのは

上は国家のために賊(董卓)を討ち、

下は将軍の家門の私的な報讐の為です」

と述べ、袁術は思い直す。


孫堅は袁術に

「勝利を目前にしながら

兵糧が続かないのは、呉起や楽毅が

涙を呑んだところで、

このことをよくお考えください」

と述べる(江表伝)


董卓は孫堅の勇壮さを憚って

将軍の李傕を派遣し

孫堅の子弟を高官に任じる条件で

孫堅に和睦を持ちかける。


孫堅は

「今、董卓の三族を打ち滅ぼして

四海に示さねば、すなわち

死しても目を瞑れぬ。

どうして和睦なぞに応じようか」

と述べてこれを突っぱね、

洛陽から九十里の距離の

大谷まで進軍する。


董卓は洛陽の都を焼き払って

長安へと遷都し、

孫堅は洛陽へと至って諸陵墓を修復し、

董卓が発掘したところを埋め戻し

軍を引き返して魯陽へと向かう。


孫堅は洛陽の惨状を見て

嘆き悲しみ、涙を流す(江表伝)


・191年〜


孫堅は入洛して漢の宗廟を掃除し、

太牢(豚や牛の生贄)を以って祠る。

城の南部の甄官井の付近に駐軍すると

明け方頃に五色の気があって

井戸の中を部下に探索させたところ

漢の伝国璽でんこくじを得る(呉書)


袁術が帝号を僭称しようとすると

孫堅が伝国璽を得たことを聞き、

そこで、孫堅の夫人を捉えて

これを奪う(山陽公戴記)


※本文では、孫堅は伝国璽を得ていない



袁紹は会稽の周㬂を派遣して

豫州よしゅう刺史とし、豫州を襲撃させる。

孫堅は慨嘆して

「ともに義兵を挙げて

社稷を救わんとしていたのに。

逆賊(董卓)が破滅しかかると

もう各々がこんな事をしでかす。

おれは誰と

力を合わせていけばいいのだ!!」

と述べ、涙を流す(呉録)


曹操が挙兵した当時

周喁は二千人を得て

その征伐に従い、軍師となる。

後に孫堅と豫州を争う事になり、

度々戦うも、勝利を得られず。

九江太守の周昂しゅうこうが袁術に攻撃され

周㬂はこれの救援に赴くが

敗れてしまい、郷里に還ったところ

許貢きょこうに殺害される(会稽典録)


192年(※三国志)

袁術は孫堅を荊州の征伐に差し向け、

劉表を攻撃させる。

劉表は黄祖こうそを派遣し、

樊城はんじょう鄧城とうじょうの間に於いて

孫堅を迎え撃たせるが

孫堅は黄祖を撃ち破り、

追撃して漢水を渡って

かくて襄陽にて包囲したが

一人、馬に乗って峴山を行き

黄祖軍の兵士に射殺されてしまう。


孫堅の兄の子の孫賁そんふん

(孫堅の)軍勢を率いて袁術に就き、

袁術はふたたび上表して

孫賁を豫州刺史とする。


孫堅は軍勢の悉くで劉表を攻め、

劉表は城門を閉ざし、

夜に将軍の黄祖を遣り

密かに出立させ兵を徴発させる。

黄祖が兵を引こうとすると、

孫堅は逆撃してこれを敗走させ

黄祖は峴山の中に逃げ込む。

孫堅は勝ちに乗じて黄祖を追撃し、

黄祖の兵は竹木の間の闇に潜んで

孫堅を射て、これを殺す(典略)


孫堅は193年の正月七日に

死んだとされる(英雄記)


劉表の将の呂公は兵を率い

山に沿って孫堅と相対し

孫堅は軽騎で迎え撃つ。

呂公の兵による落石が頭部に命中し、

脳が飛び出して孫堅は死ぬ(英雄記)


亡くなった時、孫堅は37歳である(呉録)


最後に、ンバの個人的な孫堅評です。



戦闘 ★★★★★★★★★9


〜孫堅の生涯戦績〜

○銭唐(VS胡玉)

○句章(VS許昌)

○汝南(VS波才)

○宛 (VS黄巾党)

●西華(VS黄巾党)

○涼州(VS辺章・韓遂)※三国志では不戦勝

○長沙(VS区星)

○零陵(VS周朝)

○桂陽(VS郭石)

○宜春(VS賊)※不戦勝

●梁県(VS徐栄)

○陽人(VS胡軫・呂布・華雄)

○豫州(VS周豫州)

○樊城(VS黄祖)

●襄陽(VS黄祖or呂公)※戦死


15戦12勝3敗


改めて見ると、強っ!!!!

別に大軍を率いてるわけでもないのに

これだけの勝率叩き出せるのは

ホントに強いんだと思います。


西華と襄陽の黒星は勝ちに乗じて

深入りしすぎた結果であり、

純粋な黒星は徐栄戦のみです。


徐栄は、あの曹操をも破っているので

一廉の名将と言えそうです。


反董卓連合が結成されてからは

袁術の支援を受けていますが

袁術がいなくても強い事が分かりました。



戦略★★★★★★6


「山陽公戴記」では

董卓が孫堅の戦術眼を高く評価していますが、


黄巾討伐では朱儁の配下、

董卓専横からは袁術の配下という感じで

『傭兵隊長』のイメージが拭えず、

自身の判断で去就を決めるような場面が

思ったより少ないため

この項目はあまり高い評価になりません。


自分からドンドン前に出る采配で

深入りしすぎてピンチに陥り

挙げ句の果てに命まで

落とす事に繋がる無鉄砲さは

大将としてはちょっと、

どうなの?って思うところがあります。




内政★★★★★★6


「孫堅が○○して、郡中は震え上がった」

みたいな表現が5回は出てきた気がします。


めっちゃ強い上に法律を遵守するので

任地がビシバシ引き締まってく感じが

ポイント高いです。

張飛ほど刑罰も厳しくないみたいですし。


魏書でも高い評価を受けているので

ここは呉人の色眼鏡じゃなさそう。


ただ、

許昌の乱から黄巾の乱までの12年間で、

治績をあげてる様子がないので

★7以上にはなりません。




人格★★★★★★★7


強さだけでなくその人間力で子弟を纏め、

屈強な戦闘集団を作り上げました。


逆賊董卓を追い詰め、皇墓を修復する、

廃墟となった洛陽を見て涙するなど、

また後漢王朝の臣としても

立派な忠節を見せております。


しかし「漢の忠臣」としての孫堅は

呉人寄りのバイアスがかかっている感じで、

ワシ的には「袁術の手下」なイメージです。


王叡にバカにされてたので

やはり家柄や品格はバッドな模様。


この王叡ともども、

兵糧を出し渋った張咨をも

殺してしまっているので

そこの印象がちょっと良くないです。


二張や周瑜しゅうゆ太史慈たいしじ周泰しゅうたい蒋欽しょうきん虞翻ぐほんなど

本当の意味で人材が充実してくるのは

孫策の代からになります。


孫権も顧雍こよう諸葛瑾しょかつきん歩隲ほしつ

甘寧かんねい呂蒙りょもう魯粛ろしゅく陸遜りくそんなど

物凄い人材をリクルートしてくるので


なので、そういった求心力では

孫堅はその長男・次男には

一歩劣るのかな?と思います。


圧倒的強さを誇る叩き上げの軍人で、

伝国璽関連の逸話、

没年や死因の記述の異同など

その挙動・去就はとかく

史家の心をくすぐってやまない

孫呉の創始者、孫堅伝でした。

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