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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第一、孫破虜(孫堅)伝
179/603

註二十四・二十五、最期についての異説

註24.

典略曰;堅悉其衆攻表,表閉門,夜遣將黃祖潛出發兵。祖將兵欲還,堅逆與戰。祖敗走,竄峴山中。堅乘勝夜追祖,祖部兵從竹木間暗射堅,殺之。


(訳)

典略にいう、

孫堅は軍勢の悉くで劉表を攻めた。


劉表は城門を閉ざし、

夜に将軍の黄祖を遣り

密かに出立させ兵を徴発させた。


黄祖が兵を引こうとすると、

孫堅は逆撃して戦った。


黄祖は敗走し、峴山の中に鼠竄そざんした。


孫堅は勝ちに乗じて黄祖を追撃し、

黄祖の兵は竹木の間の闇に潜んで

孫堅を射て、これを殺した。



(註釈)

典略では年代が書かれていません。


黄祖も有能な指揮官なんですが

まるで問題にしてないあたり

孫堅はちょっと強すぎます。


ここでは、孫堅が深入りしすぎて

敵の伏兵に斃された事になってます。


西華でピンチに陥った描写から

孫堅は孫堅のままのようです。


註25.

吳錄曰:堅時年三十七。英雄記曰:堅以初平四年正月七日死。又云:劉表將呂公將兵緣山向堅,堅輕騎尋山討公。公兵下石。中堅頭,應時腦出物故。其不同如此也。


(訳)

呉録にいう、

孫堅は時に歳三十七であった。


英雄記にいう、

孫堅は初平四年(193年)の

正月七日に死んだ。


またこうも云っている。


劉表の将の呂公は兵を率いて

山に沿って孫堅へと向かい

孫堅は軽騎で山を尋ねて呂公を討った。


呂公の兵が石を落とし、

それが孫堅の頭部に命中して

即刻脳が飛び出し、物故(死亡)した。


孫堅の死に様々な説があるのは

かくの如くである。



(註釈)

うっわ…………

孫堅ほどの男がこんな悲惨な末路を

辿るなんて、信じたくないよ。



呂公の「公」は公爵的な意味合いでなく

「呂公」というのが本名のようです。


「呂公!」って呼ばれても

呼び捨てにされてるのか

敬われてるのかわからん。



孫堅の死因については


・(三国志)

峴山を一人で通行していたら

黄祖の兵に射殺された。


・(典略)

敗走して峴山に隠れた黄祖を

追撃しようとして伏兵に射殺された。


・(英雄記)

山で劉表の将の呂公と戦闘になり

呂公の兵の落石が頭に当たって死んだ。


三国志演義は弓矢と落石、

横山三国志は落石、蒼天航路は弓矢と

それぞれ採用してる説が異なります。



蒼天孫堅はいう。

「いざ果つる時を迎えてみれば

なんと悔いなき天命よ。


おお!!快なり!!」



人生駆け抜けすぎだぜ孫文台!!


かくして、37年の短い生涯を閉じた

孫堅でしたが、虎の血は絶えず、

その長男次男、孫策と孫権が頑張ります。


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