十二、さらば江東の虎
12.
初平三年,術使堅征荊州,擊劉表。表遣黃祖逆於樊、鄧之間。堅擊破之,追渡漢水,遂圍襄陽,單馬行峴山,為祖軍士所射殺。
兄子賁,帥將士衆就術,術復表賁為豫州刺史。
(訳)
初平三年(192年)
袁術は孫堅を荊州の征伐に差し向け、
劉表を攻撃させた。
劉表は黄祖を派遣し、
樊城・鄧城の間に於いて
孫堅を迎え撃たせた。
孫堅は黄祖を撃ち破り、
追撃して漢水を渡って
かくて襄陽にて包囲したが
一人、馬に乗って峴山を行き
黄祖軍の兵士に射殺されてしまった。
孫堅の兄の子の孫賁は
(孫堅の)軍勢を率いて袁術に就き、
袁術はふたたび上表して
孫賁を豫州刺史とした。
(註釈)
三国志では、初平三年(192)とありますが、
「英雄記」は孫堅が亡くなったのは
初平四年(193)と言っています。
孫策伝の引く山陽公戴記では
孫策(175年生まれ)が
数えで17歳の時に
孫堅が亡くなったとされる。
すると孫堅の没したのは
初平二年(191年)ということに。
漢紀・呉録・資治通鑑などでも
191年になっており、
この説が最も有力だそうです。
後漢書の袁術は、
192年夏以降に長安から落ち延びて来た
呂布奉先を厚遇している。
やはり、袁術は孫堅の代わりに
働いてくれる有能な武官が欲しくて
呂布を厚遇したのではないでしょうか。
後漢書では
孫堅はガッツリ袁術の手下だったが、
陳寿は、三国志を書くにあたって
袁術伝に孫堅をそれほど絡めなかった。
呉書の編纂方針では、
呉人は孫家と袁術を懇意に書きたくないから。
これで符合した。
しかし、孫堅……
一人で偵察に行ったのか。
それくらいに部下に任せるか、もしくは
護衛くらいつけなきゃダメだって。
没年がハッキリしないことからも
わかるように、孫堅の急すぎる死については
様々な異説が存在します。
このあと裴註にて触れていきます。