註二十二・二十三、会稽の周氏
註22.
吳錄曰:是時關東州郡,務相兼并以自彊大。袁紹遣會稽周㬂為豫州刺史,來襲取州。堅慨然歎曰:「同舉義兵,將救社稷。逆賊垂破而各若此,吾當誰與戮力乎!」言發涕下。㬂字仁明,周昕之弟也。
(訳)
呉録にいう、
この時、関東の州郡は
お互いを兼併して
自らを強大にする事に務めていた。
袁紹は会稽の周㬂を派遣して
豫州刺史とし、豫州を襲撃させて
これを奪い取った。
孫堅は慨嘆して述べた。
「ともに義兵を挙げて
社稷を救わんとしていたのに……
逆賊(董卓)が破滅しかかると
もう各々がこんな事をしでかす。
吾は誰と
力を合わせていけばいいのだ!!」
そう言葉を発して涙を流した。
周㬂は字を仁明といい、
周昕の弟である。
(註釈)
周㬂が文字コードの問題でルビ振れない……
しゅう《《ぐ》》です。
大体後漢書袁術伝と同じ内容ですね。
孫堅が董卓を破るのに前後して
おそらく豫州刺史の孔伷が
死んでしまったのだと思われます。
孔伷が匿ってたはずの許靖が
揚州まで逃げてるので、
クーデターとか起きてたのかも。
なので、豫州刺史のポストを懸けて
袁紹と袁術がケンカを始めます。
義のために立ち上がった孫堅が
自分の利益のためだけに仲違いを始めた
諸侯の態度に苦言を呈する、という
場面なんでしょうけど
言うて孫堅だって、
反董卓連合が結成されるってとこで
個人的な恨みで上司を殺してるし、
袁紹側の豫州刺史をなんだかんだで
ぶっ飛ばしてるじゃないかよう。
江南側の史書では、孫堅は
「漢の忠臣」というバイアスがあります。
(伝国璽の記述は匙加減間違えてるけど)
しかし、そういう先入観を取っ払った
後漢書等の孫堅は
ただの「袁術の手下」です。
我田引水はよくない。
註23.
會稽典錄曰:初曹公興義兵,遣人要㬂,㬂即收合兵衆,得二千人,從公征伐,以為軍師。後與堅爭豫州,屢戰失利。會次兄九江太守昂為袁術所攻,㬂往助之。軍敗,還鄉里,為許貢所害。
(訳)
会稽典録にいう、
曹公が義兵を興した当初
人を遣って周㬂を招かせた。
周喁は即座に兵を集め、二千人を得て
曹公の征伐に従い、軍師となった。
後に孫堅と豫州を争う事になり、
度々戦うも、勝利を得られなかった。
折しも(周㬂の)次兄の
九江太守の周昂が袁術に攻撃され
周㬂はこれの救援に赴いた。
軍は敗れてしまい、郷里に還ったところ
許貢に殺害された。
(註釈)
とりあえず会稽の周氏は
袁紹・曹操の味方のようです。
周昕の弟が周喁で、
周喁の次兄が周昂ということは、
周昕→周昂→周喁の順に年長なのかな?
周昕と周昂を袁術が担当して
周喁を孫堅が担当した感じですね。
この豫州の戦いは孫堅と袁術が勝っています。
敗れた周喁は会稽に帰りますが
許貢に殺されてしまいました。
その許貢については
のちほど、孫策伝で詳しくやります。