註二十一、裴松之の見解
註21.
臣松之以為孫堅於興義之中最有忠烈之稱,若得漢神器而潛匿不言,此為陰懷異志,豈所謂忠臣者乎?吳史欲以為國華,而不知損堅之令德。如其果然,以傳子孫,縱非六璽之數,要非常人所畜,孫皓之降,亦不得但送六璽,而寶藏傳國也。受命于天,奚取於歸命之堂,若如喜言,則此璽今尚在孫門。匹夫懷璧,猶曰有罪,而況斯物哉!
(訳)
わたくし松之の意見。
孫堅は漢王朝の再興のために
義兵を挙げた者の中でも
最も忠烈であるとの称賛を得ていた。
もしも、そんな彼が漢王朝の神器を得ながら
秘匿してそれを告げていなかったのならば、
それは、密かに二心を抱いていたという事で
どうして忠臣などと呼べたものであろうか?
呉の歴史家たちは、
(伝国璽が呉に伝わったことを)
国の栄華にしようとしているが、
反対に、孫堅の持つ立派な徳を
損なっている事が分かっていないのである。
この事が果たして事実であったならば、
(伝国璽は)子孫へと伝えられて
六璽の中に数えられていないとしても
常人が所蔵するものではなく、
孫皓が降伏した際にも、やはり
ただ六璽を送るだけで、伝国璽を
宝として私蔵できる筈がない。
(伝国璽に記してあるように)
「命は天から受けるもの」であるならば
どうして帰命侯(孫皓)の御堂から
手に入れるようなものであろうか。
もしも虞喜(志林の著者)の
言う通りであるならば、
則ち、この伝国璽は今でもなお
孫氏の一門に伝わっている筈である。
匹夫は璧を壊しただけで
なお罪があるとされるが、
ましてやこの様な物であれば尚更である。
(註釈)
伝国璽に記してある文字列のうちで
異同のある部分を除いて
「受命于天」のくだりを引用して
大否定してるあたり、さすが裴松之先生!!
呉の歴史家は、伝説のスタンプが
自国に巡ってきたことを
栄誉なことのように書いてますが、
確かに、孫堅を漢の忠臣に仕立て上げたいなら
伝国璽を秘匿していたことにするのは
逆効果かもしれませんね。
話をまとめてみます。
・「漢献帝起居注」には
献帝が6つの印璽を得た……とある。
・「呉書」には、孫堅が
伝国璽を井戸で拾った……とある。
・「江表伝」には、呉が滅亡した際
孫皓が降伏の証として
金の印璽6つを献上した……とある。
※六璽と伝国璽は、全くの別物。
※献帝の六璽、孫皓の六璽も別物
・陳寿は「三国志」を書くにあたって
孫堅の玉璽関連の記述を載せなかった。
・虞喜が「志林」において
伝国璽からオーラが漏れていたのが
ウソっぽいからといって、
陳寿がここの記述を削ったのは
誹謗の類ではないかと難癖をつける。
また、印璽が7個あるのを知らずに、
孫堅のことまで否定しているのは
事情に通じていない、と批判。
・裴松之は、忠烈の誉れ高い孫堅が
伝国璽を所有していながら
秘匿している筈がないと更に反論。
孫皓が降伏した時も、伝国璽は
献上されてこなかったんだから
やはり、初めから孫堅は伝国璽を
拾ってなどいないのではないか?
と結論づける。
・「山陽公戴記」及び
「後漢書 袁術伝」では
孫堅が奥さん人質に取られて
袁術に伝国璽奪われた……事になってる。
・「後漢書 徐璆伝」では
袁術に拘留されていた徐璆が
袁術の持っていた伝国璽を
献帝に返却した…………とある。
孫堅は伝国璽を…………
①拾って隠してた派
(志林・呉書)
②拾ったけど袁術に取られた派
(後漢書・山陽公戴記)
③拾ってない派
(三国志+裴註)
皆様はどう思われますでしょうか。
伝国璽自体はこれ以降も
史書に登場するので、
紛失を免れてるのだけは
間違いありません。
三国志演義では、
孫堅が伝国璽を拾ったものの
周囲にそれを隠し、
彼の死後に子の孫策が
袁術に伝国璽を渡す代わりに
兵を借り受けるという
①と②の折衷案になっています。
伝国璽拾ったけど袁術に奪われた、なら
孫家に伝わってなくても納得ではあります。
横山三国志も同様で、
蒼天航路は孫権が持ってきます。
裴松之先生に言わせれば、演義の孫堅は、
漢への背信行為を働いた「逆賊」という事に。
三国志もので孫堅が出てきた場合は、
この伝国璽の描写を注視してみれば、
その著者の孫堅観がわかるかもしれません。