註十九・二十、玉璽に纏わるアレコレ
註19.
江表傳曰:案漢獻帝起居注云「天子從河上還,得六璽於閣上」,又太康之初孫皓送金璽六枚,無有玉,明其偽也。
(訳)
江表伝にいう、
漢献帝起居注のいうところを参照するに
「天子は河上から還るに従って
六つの印璽を閣の上で得た」とある。
また、太康の初年(280年)に
孫皓が金の印璽六枚を
(晋への降伏の印として)送ったが
玉製のものはなく、
偽物であったことは明らかである。
(註釈)
後漢王朝には、6つの印璽があったそうな。
玉で出来ていて、
でも、呉が滅亡した時に
送られてきた印璽は金製だった。
孫堅が拾った伝国璽と
それらの印璽は別物なのか?
歴史家の心をくすぐるのか
色んな異説が寄せられてますね。
献帝が入手したという
6つの印璽について、
「志林」による解説が加えられます。
註20.
虞喜志林曰:天子六璽者,文曰「皇帝之璽」、「皇帝行璽」、「皇帝信璽」、「天子之璽」、「天子行璽」、「天子信璽」。此六璽所封事異,故文字不同。獻帝起注云「從河上還,得六玉璽於閣上」,此之謂也。傳國璽者,乃漢高祖所佩秦皇帝璽,世世傳受,號曰傳國璽。案傳國璽不在六璽之數,安得總其說乎?應氏漢官、皇甫世紀,其論六璽,文義皆符。漢宮傳國璽,文曰「受命于天,旣壽且康」。「且康」「永昌」,二字為錯,未知兩家何者為得。金玉之精,率有光氣,加以神器祕寶,輝耀益彰,蓋一代之奇觀,將來之異聞,而以不解之故,彊謂之偽,不亦誣乎!陳壽為破虜傳亦除此說,俱惑起居注,不知六璽殊名,與傳國為七者也。吳時無能刻玉,故天子以金為璽。璽雖以金,於文不異。吳降而送璽者送天子六璽,曩所得玉璽,乃古人遺印,不可施用。天子之璽,今以無有為難,不通其義者耳。
(訳)
虞喜の志林にいう、
天子の六つの印璽というのは
その文面に
「皇帝之璽」「皇帝行璽」「皇帝信璽」
「天子之璽」「天子行璽」「天子信璽」
とあるものである。
この六つの印璽が
封するところは異なっており、
故に、文字も同様でないのである。
漢献帝起居注の述べている
「河上から還るに従って
六つの印璽を閣の上で得た」
とは、これの事を謂っているのである。
伝国璽というのは
すなわち漢の高祖(劉邦)が
秦の皇帝(始皇帝嬴政)の印璽を
佩いていたもので、代々受け継がれて
「伝国」璽と号されたのである。
勘案するに、伝国璽は
印璽の六つには数えられていないのに
どうして一緒に論じてよいものだろうか?
応劭の「漢官儀」や
皇甫謐の「帝王世紀」は
六つの印璽について論じているが
その文は私の意見と全て符合している。
漢官儀のいうところ
伝国璽には
「受命于天《命を天より受け》,旣壽且康《寿くして且つ康からん》」とあり、
「受命于天,旣壽《《永昌》》」(呉書)
「受命于天,旣壽《《且康》》」(漢官儀)
二字に違いはあるが、両者のうち
何れを採用すればいいのかはわからない。
金玉の精華はすべて光気を有し、
加えて神器・秘宝(の伝国璽)であれば
その輝きはひときわ彰かで、
(井戸に五色の気があったというのは)
蓋し一代の奇観であり
将来までの異聞であっただろう。
しかし、理解できないからといって
この話を偽りだと強く論じるのは
誣謗ではないだろうか??
陳寿が、破虜伝(孫堅伝)を
執筆するにあたって、
この説文を除外しているのは
彼も倶に「漢献帝起居注」に
惑わされており
六璽と呼ばれるものが存在し、
伝国璽と合わせると、印璽が
七つある事を知らなかったのである。
呉の時代には、玉に刻印する技術が存在せず
故に呉の天子は金で印璽を作った。
呉の印璽は金で作られていたと雖も
その文には違いがなかった。
呉が降伏したときに
「印璽を送った」というのは
(呉で使われていた)
天子の六璽を送ったものであり、
以前(孫堅が)手に入れた玉璽は
すなわち、古代の人が遺した印璽で
実用に堪えるものでは無かったのである。
天子の印璽が今は無いからといって
孫堅の事まで非難するというのは
その事情に通じていないというだけであろう。
(注釈)
>理解できないからといって
この話を偽りだと強く論じるのは
誣謗ではないだろうか??
すみませんでした……
わたくしが浅はかでした。
でも本当にハンコごときから
変なオーラ出てたのかなぁ…………
皇帝は用途の違うスタンプを
6種類使っていて、
で、伝国璽っていうのは
始皇帝から劉邦に伝えられてきた
唯一無二のスタンプってことで
印璽は全部で《《7つ》》あった!
6つの印璽と伝国璽を一緒くたに論じ、
孫堅の行動を非難しているなんて、
陳寿は勉強不足じゃないのか?
という、虞喜のドヤ顔記事でした。
この記事に対して
裴松之先生のツッコミが入ります→
「金」と「玉」ってワードが
頻出しますが、声に出して読むなよ!
絶対読むなよ!!(上島竜兵