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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第一、孫破虜(孫堅)伝
173/603

註十六、董卓「目障りな奴ベスト4」

註16.

山陽公載記曰:卓謂長史劉艾曰:「關東軍敗數矣,皆畏孤,無能為也。惟孫堅小戇,頗能用人,當語諸將,使知忌之。孤昔與周慎西征,慎圍邊、韓於金城。孤語張溫,求引所將兵為慎作後駐。溫不聽。孤時上言其形勢,知慎必不克。臺今有本末。事未報,溫又使孤討先零叛羌,以為西方可一時蕩定。孤皆知其不然而不得止,遂行,留別部司馬劉靖將步騎四千屯安定,以為聲勢。叛羌便還,欲截歸道,孤小擊輒開,畏安定有兵故也。虜謂安定當數萬人,不知但靖也。時又上章言狀,而孫堅隨周慎行,謂慎求將萬兵造金城,使慎以二萬作後駐,邊、韓城中無宿穀,當於外運,畏慎大兵,不敢輕與堅戰,而堅兵足以斷其運道,兒曹用必還羌谷中,涼州或能定也。溫旣不能用孤,慎又不用堅,自攻金城,壞其外垣,馳使語溫,自以克在旦夕,溫時亦自以計中也。而渡遼兒果斷蔡圍,慎棄輜重走,果如孤策。臺以此封孤都鄉侯。堅以佐軍司馬,所見與人同,自為可耳。」艾曰:「堅雖時見計,故自不如李傕、郭汜。聞在美陽亭北,將千騎步與虜合,殆死,亡失印綬,此不為能也。」卓曰:「堅時烏合義從,兵不如虜精,且戰有利鈍。但當論山東大勢,終無所至耳。」艾曰:「山東兒驅略百姓,以作寇逆,其鋒不如人,堅甲利兵彊弩之用又不如人,亦安得乆?」卓曰:「然,但殺二袁、劉表、孫堅,天下自服從孤耳。」



(訳)

山陽公載記にいう、


董卓は長史の劉艾りゅうがいに述べた。


「関東の軍(袁紹たち)は敗れること数度、

(おれ)を畏れており、無能だ。


ただ、孫堅の小僧のみは

すこぶる能く人を用いる。

諸将に伝えて、奴を避けるよう

知らせてやるべきであろうな。


孤は昔、周慎しゅうしんとともに西征して

周慎は辺章へんしょう韓遂かんすいを金城に囲んだ。

孤は張温に語って、その将兵を引率して

周慎の後詰として駐留する事を求めたが

張温は聞き入れなかった。


孤がその時、その形勢を上表したのは

周慎はきっと勝つことができないと

わかっていたからだ。

台(王宮)には今でも

その本末が記されている。


事が未だ報されぬうちに

張温はまた孤を遣わして、

先零で叛いた羌族を討たせようとした。

西方はもうじき平定できると

考えていたからだ。


孤には事が成就しないと

すべてわかっていたが、

(命令に背いて)止まるわけにもいかず

かくて先零へと向かい、

別部司馬の劉靖りゅうせいを留め置き

歩兵・騎兵四千を率いさせ

安定に駐留させて、情勢の報告役とした。


叛乱を起こした羌族は直ちに還りて

帰路を断とうとしたが

孤が少し攻撃しただけで容易く道は開けた。

安定に兵がいる事を恐れたからだ。

賊どもは安定に

数万人が配備されていると考え

実際はただ劉靖(の四千)のみしか

おらぬ事を知らなかったのである。

この時、再度上章して現状を述べた。


一方孫堅は周慎に付随して行軍しており、

奴は周慎に(私自ら)一万の兵を率いて

金城へと向かい、周慎には二万の兵を率いさせ

後詰として駐留する事を求めた。

辺章・韓遂の城中には穀物の蓄えが無く、

当然外部から(食糧を)運んで来るだろうが

周慎の大軍を畏れて、敢えて軽々しく

私(孫堅)と戦う事は無いであろうし

私の軍は敵の糧道を断つのに

十分であるから……と謂った。


小僧こぞっ子どもが孫堅の策を用いていれば

きっと羌族は谷中に引き返しただろうし

或いは涼州も平定できたやもしれぬ。


張温はおれの策を用いることなく、

周慎もまた孫堅の策を用いずに

自ら金城を攻め、その外垣を壊して

使者を馳せさせ、張温に伝えた。


周慎は旦夕のうちに勝利できると考え

張温もまたこの時、自分の計略が

あたったと考えていたのだ。


ところが、渡遼児(羌族の奴ら)が

結局蔡園を断ち切ったために

周慎は輜重を棄てて逃走した。

果たして孤の考えた通りであったのだ。


台はこの事で孤を都郷侯に封じた。

孫堅は佐軍司馬となり

余人と同様に扱われていたが

自ら納得しているようであった」


劉艾は言った。


「孫堅は時に計略を見せますが、

もとより李傕・郭汜に及びません。


聞くところによれば、

美陽亭の北に在ったとき

千の騎兵・歩兵を率いて賊と合戦し

殆ど死にかけて、印綬も

失ってしまったとの事。


これでは能力があるとは申せません」


董卓は言った。


「孫堅はその時、烏合の集の如き

義勇軍を率いていただけで

その兵は賊ほど精鋭ではなく、

かつ、戦には利鈍というものがある。


山東の大勢を議論するに当たっても

最終的にどういった結末に至るかわからぬ」


劉艾が言った。


「山東の小僧っ子どもが

百姓を嗾けて逆賊と成しておりますが

その鋒は我々には及ばず

鎧の頑強さも、兵器の鋭利さも

弩の強さもまた我々程ではありません。

どうして長く安定を保てるでしょうか?」


董卓が言った。


「その通りだ。ただ、二袁(袁紹と袁術)と

劉表、孫堅さえ殺せば

天下は自ずと孤に服従する事になる」


(註釈)

前述の通り、孫堅伝本文では、

辺章へんしょう韓遂かんすいは戦わず降伏したとありますが

この山陽公戴記では

普通に辺章・韓遂と戦った記述があります。


それだけなら信憑性は微妙なとこですが

後漢書もまた然りであるため、

三国志の方が間違ってるのか?

と思ってしまいます。


董卓伝も後ほどちゃんとやろうと思います。



ここの記述見る限りでは、

董卓はただの暴君じゃなくて

確かな戦術眼を持った優秀な指揮官ですね。

上司の張温は無能だったけど、

孫堅は出来る奴だったな、という昔話。


何進と袁紹が董卓を都に呼び寄せたのは

やはり、董卓が強くて頼りになる人物だと

判断したからだと思われます。


董卓が危険視してたのは

袁紹・袁術・劉表・孫堅の4名。


董卓は、袁家の2人の求心力と

孫堅の強さは実際に見てたからいいとして

劉表をそこまで警戒する要素あったっけ。


袁紹と袁術の対立が表面化するまでは

袁術-孫堅-劉表の

荊州グループがやっぱり怖かったのかな。



袁紹・袁術・曹操・孫堅の4人なら

めっちゃ納得なんですが……


64頁の裴松之の批判を見るに

(劉備を字で呼ぶ馬超の話)

山陽公戴記の信憑性は低いらしいので

どこまで信じていいものやら。

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