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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第一、孫破虜(孫堅)伝
160/603

五、文台よ斬ってくれぬか忘恩の徒

5.

邊章、韓遂作亂涼州。中郎將董卓拒討無功。中平三年,遣司空張溫行車騎將軍,西討章等。溫表請堅與參軍事,屯長安。溫以詔書召卓,卓良乆乃詣溫。溫責讓卓,卓應對不順。堅時在坐,前耳語謂溫曰:「卓不怖罪而鴟張大語,宜以召不時至,陳軍法斬之。」溫曰:「卓素著威名於隴蜀之間,今日殺之,西行無依。」堅曰:「明公親率王兵,威震天下,何賴於卓?觀卓所言,不假明公,輕上無禮,一罪也。章、遂跋扈經年,當以時進討,而卓云未可,沮軍疑衆,二罪也。卓受任無功,應召稽留,而軒昂自高,三罪也。古之名將,仗鉞臨衆,未有不斷斬以示威者也,是以穰苴斬莊賈,魏絳戮楊干。今明公垂意於卓,不即加誅,虧損威刑,於是在矣。」溫不忍發舉,乃曰:「君且還,卓將疑人。」堅因起出。章、遂聞大兵向至,黨衆離散,皆乞降。軍還,議者以軍未臨敵,不斷功賞,然聞堅數卓三罪,勸溫斬之,無不歎息。


(訳)

辺章へんしょう韓遂かんすいが涼州で叛乱を起こした。

中郎将の董卓が討伐に当たったが

功は無かった。


中平三年(186年)、

司空の張温ちょうおんに車騎将軍を兼行させ

西方の辺章らの討伐に当たらせた。


張温は上表し、孫堅を参軍として

ともに討伐に従事させるよう願い出て

長安に駐屯した。


張温は詔書を以て董卓を召したが、

董卓はかなり時間が経ってから

ようやく張温を詣でた。


張温は董卓が遅れた事を責めたが、

董卓の応対は不順であった。


孫堅はその時座席にあったが、

進み出て、張温に耳打ちして述べた。


「董卓は罪を恐れずに、

威張り腐って大きな口を叩いています。


召し寄せたにも関わらず、

時間通りに現れなかったという理由で

軍法に照らし合わせて

彼を斬るのが宜しいかと」


張温は述べた。


「董卓の威名は、もとより

隴・蜀の間にあらわれておるのだ。


今彼を殺してしまえば

西方へ進行する上での

拠り所を失ってしまうぞ」


孫堅は言った。


「明公《張温どの》は親しく王兵を率い、

その威風は天下を震わせておりますのに、

何故董卓を頼らねばならぬのです?


董卓の言動を観察したところ、

明公のもとへすぐに至らず

上の者を軽んじて、

無礼な振る舞いを働きました。

これが第一の罪です。


辺章と韓遂は年を経て跋扈ばっこし、

当初、軍を進めて討つべき時でしたのに

董卓は、まだ(討伐は)出来ぬと述べて

軍事をはばみ、人々を混乱させました。

これが第二の罪です。


董卓は任を受けれど功は無く、

お召しに対して稽留けいりゅうで応じ、

軒昂で自ら驕り高ぶっています。

これが、第三の罪です。


古の名将はまさかり(刑罰執行権の証)

を執って人々に臨み、

英断によって(罪人を)斬り

威を示さなかった者は居りません。


司馬しば穰苴じょうしょ荘賈そうかを斬ったり

魏絳ぎこう楊干ようかんりくした例がこれに当たります。


今、明公が董卓に意を垂れて(下手に出て)

ただちに誅伐をお加えにならなければ、

この事から刑罰の威を損なうことになります。


張温は行動に移すことが忍びなく、

そこで、こう述べた。


「君は一旦退がれ。

董卓が我々に疑いを抱くぞ」


孫堅はその言葉により、退出した。


辺章と韓遂は大軍が至ったと聞いて

その手勢の衆は離散してしまい

皆、降伏を乞うた。


軍勢が帰還すると、

軍は敵と戦っていないと議する者がいて

論功行賞は行われなかったが、

孫堅が董卓の三つの罪状を数えて

張温にこれを斬る事を勧めたと聞いて

嘆息せぬ者はなかった。


(註釈)

さて傲岸董卓現れて

あくたの功無く威張りくたるも

恐れをなした張温、

一切合切手出しが出来ぬ。


忠義の魂震えて起こり

文台よ、斬ってくれぬか忘恩の徒、

というところ。


続きはどうなるのか、それはまた次回で。


(演義の次回予告風に




上司に不遜な態度を取る董卓、

骨の髄まで悪役として書かれます。


董卓は黄巾の乱でも目ぼしい功は無く

辺章へんしょう韓遂かんすいの反乱も

鎮圧できなかったみたいですが、

(張温の命で先零の方に行ってたらしい)

涼州を始めとした僻地で

異民族の討伐に幾度となく当たり

かなりの戦果を叩き出しています。


三国志では、辺章と韓遂は

戦わずに張温の軍勢に降伏していますが

後漢書霊帝紀・董卓伝や山陽公戴記さんようこうたいきでは

普通に合戦の様子が描かれています。


山陽公戴記では特に、

董卓は「上司の張温が無能だった」ために

勝てる戦も取りこぼす?形になった……

という感じの内容になっています。


董卓はただの暴虐な為政者ではなく

優秀な指揮官の側面も持ってるんです。



呉書(三国志)では、

孫堅の偉さを強調するために

董卓をピエロにしている雰囲気あります。


とにかく、ここの記述では

孫堅は董卓の傲岸不遜な態度や

軍紀を乱す行動ぶりにカチンと来て、

張温に殺すように勧めますが、

張温は董卓の涼州での威名を恐れて

実行に移すことができませんでした。


董卓は、張温と孫堅が

自分を殺そうとしていた事を伝え聞いて

彼らを憎むようになったとかで、

董卓はのちに張温を殺して、

酒宴の席で彼の首を見せつけたといいます。



186年の時点でもし

董卓が誅されていたら

どんな流れになるんでしょう。


何進も董卓もいないとなると、

霊帝が崩御した時に

主導権を握るのはやはり

袁紹か袁術になるんですかね。


何進と袁紹が宦官の大粛清に

乗り出すのは史実並みで、

何太后と少帝は生き残る。


袁紹と袁術が仲良いとこは

想像できないにしろ、

400年も戦乱が続くことはなさそう。



また、180年代から

210年代まで朝廷に

反抗を続けていたと考えると

韓遂は結構すごい人ですね。



演義の潼關の戦いの時に

韓遂は40歳だったという設定は、

こう考えるとやっぱムリがあります。



司馬穰苴(じょうしょ)は春秋時代の斉の人で、

王様のお気に入りの荘賈そうか

会合に遅刻してきたために

軍法に照らして彼を処断しました。


楊干ようかんについては法正伝の

孫盛のコメントにも引用されております。

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