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淡々三国志  作者: ンバ
蜀書第六、関羽伝
16/603

七、関羽の北伐

7.

二十四年、先主為漢中王、拜羽為前將軍、假節鉞。是歳、羽率衆攻曹仁於樊。曹公遣于禁助仁。秋、大霖雨、漢水汎溢、禁所督七軍皆沒。禁降羽、羽又斬將軍龐悳。梁郟・陸渾羣盜或遙受羽印號、為之支黨、羽威震華夏。


(訳)

建安二十四年(219年)

先主は漢中王となると、

関羽を前将軍に任命し、節鉞せつえつを貸与した。

この年、関羽は軍を率いて

樊城はんじょう曹仁そうじんを攻めた。

曹公は于禁うきんを派遣し曹仁を救援させたが、

秋になって長雨が降り、漢水が氾濫して

于禁の統率する七軍は悉く水没してしまった。


于禁は関羽に降り、

また関羽は将軍の龐徳ほうとくを斬った。


りょうこう陸渾りくこん(地名)の群盗の中には

遥かに関羽から印号を拝受して

彼の支党となる者もおり

関羽の威風は中原を震え上がらせた。


(註釈)

横山三国志でいうと40、41巻あたりです。


214年に益州を領し

219年に漢中に於いて

曹操軍を撃退した劉備は

ついに「王」を名乗ります。


しかも「漢中王」です。

高祖劉邦が漢中から天下取ったのを

私自ら再現しましょう、と言わんばかりに。


216年に曹操が魏王に就任してるんですが

それもだいぶ意識してると思います。


荊州総督の関羽は

漢中王となった劉備から

節鉞せつえつを与えられ

(独断専行権のあかし)

樊城の曹仁を攻めます。


前年に関羽は南陽なんよう侯音こうおんと内通し

反乱を扇動していました。


218〜219年は

金禕きんい吉本きつほん耿紀こうき魏諷ぎふう韋晃いこう、侯音と

魏領で反乱を起こした、又は

起こそうとした人物が結構出ています。


南陽は当時過酷な軍役で疲弊しており

関羽はそこに付け込んだのでしょう。


侯音が山賊らと結んで謀反を起こしたため

曹操は曹仁そうじん龐徳ほうとくを討伐に当たらせます。


侯音は関羽の援軍を待ちながら

宛を守っていたものの、

曹仁と龐徳の奮戦の前に敗れ

斬首されてしまいます。


侯音が敗死したのが219年の正月で

劉備が漢中王になったのが同年の秋、

関羽が樊城を攻めたのも秋になります。


兎にも角にも、侯音の反乱でいまだ

動揺収まらぬ南陽を関羽は攻めたわけです。



「関羽が攻めて来た」との報を受け

曹操は于禁を援軍に差し向けましたが

秋の長雨の影響で漢水が氾濫したため

于禁の軍は水没してしまい、

于禁は降伏、龐徳も関羽に

斬られてしまいます。



曹操は于禁が降ったのを聞くと

「私が于禁を知ってから三十年になるが

危機に臨んで(新参の)龐徳に劣るとは

思いもよらなかった」と嘆いたとか。


関羽は漢水を遡る目論見で

船を用意していたのに対して

于禁の軍は船を備えていなかったため

両軍の明暗がくっきり分かれてしまいました。



関羽はさらに群盗を味方につけ

曹仁の籠る樊城は雨の影響で

ほとんど水没状態です。


曹操は関羽の威勢に震え上がり

遷都まで考えたといいます。



が…………


次回、司馬懿しばい孫権そんけんが動きます。

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