二、許昌討伐
2.
會稽妖賊許昌起於句章,自稱陽明皇帝,
與其子韶扇動諸縣,衆以萬數。堅以郡司馬募召精勇,得千餘人,與州郡合討破之。是歲,熹平元年也。刺史臧旻列上功狀,詔書除堅鹽瀆丞,數歲徙盱眙丞,又徙下邳丞。
(訳)
会稽の妖賊の許昌が句章において起ち、
「陽明皇帝」を自称した。
許昌はその子の許韶とともに
諸県を扇動し、数万の衆人を集めた。
孫堅は郡の司馬として勇士を募り
千余人を得て、州郡を糾合して
許昌を討伐した。
この歳は、熹平元年(172年)である。
刺史の臧旻は功績を書き連ねて上表し、
詔書によって孫堅は塩瀆の丞に除され、
数年後に盱眙の丞に移り、
また、下邳の丞に移った。
(註釈)
曹操が遷都した「許都」が
曹丕の時代になって「許昌」に改名されました。
(※魏の首都は許昌じゃなくて洛陽です)
ここで、会稽の妖賊(宗教反乱者)で
勝手に皇帝を自称した「許昌」という男が
登場しましたが……
名前が超紛らわしいです。
許昌(地名)
許昌(人名)
が存在するということだけ、
頭の片隅に入れておいてください。
東京(地名)
東京(人名)
みたいな……w
許昌(人間の方)は、史書によって
名前の表記がバラバラで混乱するので、
ここには全てを記しません。
172年ということは、
孫堅は155〜6年生まれくらいなので
まだ10代ということになります。
許昌(人間)討伐戦で部隊長として活躍し、
刺史からその功績を認められて
頭角を表してゆきます。