一、孫子の裔
孫策・孫権兄弟の偉大な父であり、
三国の一角、呉のパイオニアとされる
孫堅伝を読んでいきます。
本文はそこまで長くないんですが
註釈がかなり多いので、
全体のボリュームはそこそこです。
1.
孫堅字文臺,吳郡富春人,蓋孫武之後也。少為縣吏。年十七,與父共載船至錢唐,會海賊胡玉等從匏里上掠取賈人財物,方於岸上分之,行旅皆住,舩不敢進。堅謂父曰:「此賊可擊,請討之。」父曰:「非爾所圖也。」堅行操刀上岸,以手東西指麾,若分部人兵以羅遮賊狀。賊望見,以為官兵捕之,即委財物散走。堅追,斬得一級以還;父大驚。由是顯聞,府召署假尉。
(訳)
孫堅はあざなを文台といい
呉郡の富春県の人で、
おそらく孫武の後裔である。
若くして県吏となった。
十七歳のとき、父とともに
船に乗って銭唐へ至った際に
ちょうど海賊の胡玉らが
匏里に上陸し、商人達の財物を掠め取り、
それを岸辺で分け合っている場に出くわし
旅行く人は皆留まって、
船は思い切って進めずにいた。
孫堅は父に言った。
「この賊どもは撃ち破る事ができます。
私に討たせてください」
父は言った。
「お前にどうにか出来る問題ではない」
(父の言葉を無視して)
孫堅は行き、刀を手に取って岸に上がり、
手で東西に指図をして、あたかも
部下や兵卒を分けて、賊を包囲して
遮ろうとしているかのようだった。
賊は(孫堅のようすを)望見して
官兵が自分たちを捕まえに来たのだと思い、
即座に財物を放り出して逃走した。
孫堅はこれを追って、
首を一つ取って戻ってきたため
父親は大いに驚いた。
この一件で孫堅の名は広まり
府は彼を召して仮の尉に署した。
(註釈)
呉のパイオニア孫堅は、
孫子兵法で知られる孫武の末裔とされます。
「おそらく」孫武の末裔……
っていうのが引っかかりますが、
皇帝に即位した曹丕や劉備や袁術と比べて
孫家はどうにも家柄がアヤシイので、
呉書の作者が自国の創始者に
ハクをつけるために、
「孫子の末裔」という設定を盛ったとか?
陳寿は、呉の記述の部分は、
韋昭の呉書を参考に書いたとされます。
「おそらく」と曖昧な表現を用いて
お茶を濁したのは、彼から見てたぶん
信憑性が30%くらいだったから。
17歳の若き孫堅、
海賊の略奪に遭遇するも
度胸と機転でこれを追い払うという、
既に名将の片鱗が垣間見えるような
武勇伝が語られます。
海賊たちも、孫堅が手で合図しただけで
逃げ出してしまうという事は、普段から
よく官兵に追い回されてたんでしょうか。
陳寿は、建前上は
魏を正統王朝として書き、
曹操・曹丕・曹叡らの事績を
本紀(皇帝の記録)としてメインに据え、
一方で、祖国である蜀にも
密かなリスペクトを表して
劉備→先主
劉禅→後主として表記し、
死亡時の表現にも気を遣うなど
一生懸命「蜀は特別なんだぞ」
アピールをしています。
そして、江南に独自の文化圏を
拓くに至った呉の国の史書、呉志。
その第一巻では
実質の創始者である孫堅、
孫堅の後を継いで
地盤を固めた孫策の伝記が
纏められています。
孫堅の諡号は「武烈皇帝」
孫策の諡号は「長沙桓王」なんですが、
陳寿はこの呉志第一巻を
「孫破虜討逆伝」として
生前の役職名でタイトリングし、
列伝の中では『孫堅』『孫策』と
呼び捨てにしています。
魏の曹氏、蜀の劉氏との
露骨な差別化が図られており、
陳寿は特に孫権が嫌いなのか、
呉の人の評文において
孫権へ苦言を呈することが多いです。
孫権も超すごい人なんだぞう。
陳寿にとっては
魏≧蜀>>>呉くらいの優先順位なのです。
後世の知名度にもその影響が
モロに出てる気がします。