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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第六、袁術伝
150/603

まとめ

袁術伝は以上です。

例によって事績をまとめます。




・???

司空の袁逢の子として生まれる。

若い頃は侠気で知られた。


・???

孝廉こうれんに推挙されて郎中ろうちゅうに任命され

内外の職を歴任し、のちに

折衝せっしょう校尉こうい虎賁こほん中郎將ちゅうろうしょうとなる。



・189〜190年?

董卓が帝を廃そうとして

袁術を後将軍に任命するが、

災いを恐れて南陽へ逃げる。


ちょうど孫堅が南陽太守の

張咨を殺害したために、南陽を支配する。


南陽の戸口は数百万だったが、

袁術は奢侈淫佚しゃしいんいつで欲望のままに振る舞い

税の徴収に限度がなく、百姓は困苦する。



・190〜191年

劉表が上奏して、

袁術を南陽太守とする。

袁術も一方で孫堅を豫州刺史とし、

荊州・豫州の兵卒を率いさせて

陽人において董卓を撃破する(後漢書)



孫堅が伝国璽を発見したと聞き、

孫堅の妻を捕らえて、伝国璽を奪い取る

(後漢書)


袁術は讖緯書を僅かに見て

「漢に代わる者は当塗高とうとこうなり」

という記述から、自らの名乗る諱と字が

これに対応したものだと考える。

また袁氏は帝舜ていしゅんの後継の陳から出ており、

黄(舜の土徳)を以て赤(漢の火徳)に代わり

徳ある者が天命を次ぐと考えた。

こうして漢に反逆し、僭称する意図を持つ。

(後漢書)



・191〜192年

董卓が献帝を立てたのに対抗し、

袁紹と韓馥は劉虞を皇帝に擁立しようと図り

袁術にもその事を報せるが

異心を抱いていたために取り合わず、

袁紹は再度手紙をやって袁術を説くも

袁術は返書にて反論する(呉書)


袁紹は会稽かいけい周昕しゅうきんを遣って

孫堅の任地の豫州を勝手に奪い、

怒った袁術は周昕を攻撃して

これを破る(後漢書)


袁紹と袁術はこうした理由から

徐々に仲違いし、袁紹は劉表と、

袁術は公孫瓚とそれぞれ結んで

争い合うようになる。


豪傑の多くが袁紹についたために

袁術は激怒し、公孫瓚に手紙をやって

卑しい袁紹は袁家の人間ではないと述べ、

袁紹はこれを聞いて怒る(後漢書)


袁術は孫堅を派遣して

劉表を攻撃するも、

孫堅が戦死してしまう(後漢書)


公孫瓚は劉備を派遣して

袁術とともに袁紹に当たらせるも

曹操と袁紹に破られる(後漢書)


・192〜193年?

李傕りかくは長安へ入ると

袁術と結んで助けにしようとし、

そこで袁術に左将軍位を授けて

節を仮し陽翟ようてき侯に封じる(後漢書)


李傕の派遣した馬日磾から

袁術は節を奪い取り、彼を拘留する。

袁術は自分の配下の十人余りを

取り立てるように馬日磾を脅す。

馬日磾は長安への帰還を願い出るも

袁術は許さず、憤死してしまう。

(献帝春秋)




・193年

軍を引いて陳留に入国し封丘ほうきゅうに駐屯。

黒山賊の残党及び

匈奴の於扶羅おふららが袁術を助け、

曹操と匡亭きょうていで戦うも大敗する(後漢書)


袁術は退却して雍丘ようきゅうを保ち

また余勢を引き連れて九江へ奔り、

揚州刺史の陳温ちんおんを殺害して

揚州を自らの領地とし、

また一方で徐州牧を自称する(後漢書)


陳温は病死しており、

袁術に殺されてはいない。

袁術は下邳の陳瑀ちんうを揚州刺史とし、

袁術が封丘に於いて曹操に敗北したのち

南方の寿春じゅしゅんへと向かったが

陳瑀は袁術を拒んで揚州へ入れず。

袁術が撤退して陰陵いんりょうを保ち

改めて軍勢を糾合して陳瑀を攻撃し

陳瑀は下邳へと逃げ帰る(英雄記)





・194年?

沛の相で、昔馴染みである陳珪を

招致しようと考え、

陳珪の子の陳応を人質に取って

陳珪に書状を送るも、拒否される。



・195年

献帝が曹陽で李傕らに敗れ、

袁術は百官を集めて

皇帝に即位する是非を問うが

主簿の閻象えんしょうから反対される。





・196年

劉備と徐州に於いて戦う。

呂布が下邳を奪い、劉備は

呂布に降伏する(先主伝・呂布伝)


袁術は呂布に手紙を送って

二十万斛の米を送る条件で

劉備の背後を衝くよう仕向ける(英雄記)


袁術が紀霊ら三万の軍勢を派遣して

劉備を攻撃しようとすると

劉備は呂布に救援を要請する。

諸将は劉備を殺せと主張するが

呂布は反対して両軍の停戦に赴く。

呂布は営門に戟を掲げさせて

「一発で弓を命中させたら

攻撃をやめて帰れ」と紀霊らに言い

見事一発で的中させ、両軍を撤退させる。

(呂布伝)


6月、袁術は陳宮と郝萌かくほうに内応させ

呂布を討とうとするも、

高順によって鎮圧される(英雄記)



徐州攻めに際して、廬江太守の陸康に

米三万斛を要求するも、拒否される。

袁術は激怒して、孫策に討伐を命じ

孫策は陸康を破る(孫策伝)



・194年?〜196年

孫策が揚州刺史の劉繇らを破り

呉会地方を平定する(孫策伝)


・197年

河内の張烱ちょうけいの符命を用いて

称帝し、「仲氏」を自称する。

九江太守を「淮南尹」として

公家百官を置き、天地を祀る。


孫策が書状を送って袁術を諌めるも

聞き入れられず、

孫策は袁術と絶縁する(後漢書)


動乱を避けて揚州に在った

国を傾けるほどの容色を持つ

司隷の馮方ふうほうの娘を娶り、寵愛する。

諸夫人たちは馮氏を妬んで、

「いつも涙を流していれば

袁術将軍に長く可愛がって貰える」

と語り、その通りにしたことで馮氏は

実際に袁術から益々可愛がられる。

諸夫人らはこの事が原因で

共に馮氏を絞め殺して、

厠の梁に懸けてしまい、

袁術は、馮氏が本当に

思い悩んで自殺したと思い込み、

手厚い殯斂ひんれんを加える。

(九州春秋)



使者の韓胤かんいんを遣って

称帝した事を呂布に告げさせ

呂布の娘と自身の子を配偶させようとするも

事態を重く見た陳珪が反対し、

呂布は韓胤を許に送って

韓胤は晒し首となる(呂布伝)


袁術は韓胤を殺された事に激怒して

張勲に大軍を与えて

韓暹かんせん楊奉ようほうらとともに呂布を攻撃させる

(呂布伝)


張勲・橋蕤きょうずいらは

歩兵・騎兵数万の軍勢を率いて

七道から呂布を攻める。

呂布は陳珪の策を容れて

楊奉らを寝返らせて張勲らを大破する。

橋蕤は生け捕りにされる(呂布伝)


また、兵を率いて陳国を攻撃し、

陳王の劉寵りゅうちょう及び、相の駱俊らくしゅんを誘殺する。

この事態に曹操が自ら出向き、

袁術は即座に淮南へ逃げて

張勲、橋蕤を蘄陽きように留めて曹操を防がせるが、

橋蕤は斬られ、張勲は敗走する(後漢書)


ひでりが続いて土地が荒れ、

長江・淮水の間で飢饉が起きる。

袁術から沛の相に任命された舒仲応じょちゅうおう

袁術から軍糧として与えられていた

米十万斛を飢えた民に補給し、

袁術はこれを聞いて怒り、

兵を連ねて彼を斬ろうとする。

仲応は

「私一人の命で、百姓を途端の苦しみから

救えるのならば、本望です」

と述べて、袁術はその手を取り

「仲応よ、足下は天下の重名を独占し

吾とともにそれを分かち合おうとは

してくれぬのかね?」と語る(後漢書)



・198年

曹操が呂布を下邳に追い詰める。


許汜と王楷を派遣して

呂布は袁術に救援を求めるが

袁術との婚姻を断ったために

援軍を渋るのではと恐れて、

改めて娘に綺麗な格好をさせて

馬に縛り付けて、袁術の元へ

送り届けようとしたが、

曹操の兵に阻まれて結局果たせず。

(英雄記)



・199年

称帝するに及んで、

袁術の奢侈淫佚はますます激しくなり

民を一切顧みなかったために

物資の実入りがなくなってしまい、

自立できなくなる(後漢書)


宮室を焼き払い、

その部曲で、灊山せんざんにいた

陳蘭・雷薄のもとへ奔ろうとするも

受け入れられず、困窮する(後漢書)


袁術は袁紹に帝位を譲ろうと

袁紹に書状を送る。

袁紹も袁術の計画に賛同する。

袁術は北の青州へと向かい

袁譚(袁紹の長男)に従おうとしたが

曹操は劉備を遣わしてこれを遮り、

再び寿春へと逃げ帰る。

6月、江亭に至って

袁術は床敷に座し、歎息して

「袁術ともあろうものが、

このような事になろうとは!!」

と憤慨して病に罹り、血を吐いて死ぬ。

(後漢書)



酷暑のなか、

蜂蜜入りの水を欲しがる(呉書)


最後に、ンバの個人的な袁術評です。




戦闘 ★★★★★5


〜袁術の生涯戦績〜

○陽人(VS呂布・胡軫こしん)※孫堅と

○豫州(VS周昕しゅうきん)※孫堅と

○樊城(VS黄祖)※孫堅戦死

●高唐(VS袁紹・曹操)

匡亭きょうてい(VS曹操)

封丘ほうきゅう(VS曹操)

襄邑じょうゆう(VS曹操)

寧陵ねいりょう(VS曹操)

○九江(VS陳温or陳瑀)

○下邳(VS劉備)※呂布を内応させる

●下邳(VS呂布)※陳宮を内応させる

●下邳(VS呂布)※指揮官は張勲と橋蕤

○陳国(VS劉寵)※暗殺

蘄陽きよう(VS曹操)※指揮官は張勲と橋蕤

●徐州(VS劉備・朱霊)※道を塞がれる


15戦6勝9敗。

孫策や孫賁の働きは含めてません。



孫堅を支援して董卓を破るまでは

袁紹よりどう見ても強豪感あります。


戦の指揮は孫堅・孫策・紀霊・張勲等に任せ

自ら兵を率いている描写は少ないです。

呂布に惨敗した時も、袁術本人が

戦に出たわけではないので、

マイナスには捉えないでおきます。


揚州や陳国取りがスムーズだったので

それなりのものはあるの……かな?


徐州時代の劉備と正面からぶつかって

互角な感じでしたが

兵力は袁術が上でしょうし、

むしろ袁術が弱く、

劉備が強いという傍証になりそう。


対曹操に至ってはすべて惨敗ですが

曹操はちょっと強すぎるので

これは仕方ないかなと思います。

曹操が徹底的に打撃を与えようとするほどに

袁術の存在が脅威に映っていたとも。


きっと、これからという時に

孫堅が死んでしまったのは

袁術にとって痛恨の極みだった。


袁術が呂布に近付いてきたのは恐らく、

孫堅のスペアが欲しかったからじゃ?

少なくとも、後漢書では

そういう書かれ方をしているように

ワシには感じられました。


みんなが恐れた董卓を刺殺した呂布は

強くて勇敢、かつ忠良に見えます。

なので、孫堅の後釜に据えるには

最適の人材だと袁術は判断した……のかも。


しかし呂布は、孫堅ほど

節操のある人物ではなく、

利益のある方にすぐ寝返り

御する事が全くできずに

共倒れに近い形になってしまった、と

そういう風に考えました。



戦略 ★★★★★★6

袁紹と仲違いして、中原を混乱に

陥れてしまったのはマズイですが、

遠くの公孫瓚や、陶謙と結んで

遠交近攻をきちっと成立させてると

考えれば、そこまで悪くないのか、も?


九江を円滑に占拠し、

英雄記では呂布に内応させて劉備を破り

後漢書では劉寵りゅうちょう駱俊らくしゅんを誘殺しているため

策謀にはかなり長けている印象、

舞台の裏側での手回しが上手です。


張邈ちょうばく陳宮ちんきゅうえん州での謀叛も

袁術が唆した形、というのもあり得ます。


李傕りかく政権下で高位にあった

馬日磾ばじつてい金尚きんしょうにせっついたあたり、

予定ではもっと段取りを踏んでから

皇帝に即位する腹積もり

だったのでしょうが、

曹操に出し抜かれて、たぶんに

慌ててしまったんだと思われます。


孫策に江南の平定を命じて

これも成功してるんですが、

皇帝に就いたタイミングが悪く

さすがに孫策も袁術に同調して

周りから総スカンをくらうのは

避けたかったみたいです。


史家たちの負属性のバイアス無視しても

即位したのがケチのつき始めなのは

間違いなさそう。


三国志の本文だけ拾うと

対劉備と対劉寵の謀略が無かった事になり、

評価が★3くらいまで下がってしまいます。




内政 ★★★3


内政を明らかに軽視しており、

南陽でも寿春でも奢侈多淫ぶりを見せ

民衆をまったく顧みませんでした。


陳留で曹操にやられてから

揚州で再起するまでが早いのは、

孫堅や孫賁そんふんの力もあったでしょうが

評価すべきポイントだと思います。

その土地の統制システムを

流用するのは上手いのかな?


舒仲応が10万斛の米持ってたり、

呂布にお米20万斛あげるよと

言ってたり、兵糧はとかく潤沢です。

言うほど管理能力低かったの?と

問われれば、そうでもないような。


(内容がペラペラすぎる198年に

何があったのかもっと

詳細に教えて欲しかったです)


が、民を顧みない描写が二回ある以上

★3より高くはできませんでした。


李傕が★1。董卓が★2です。




人格 ★★★★★★6


腐っても四世三公、

名門袁家としての名声は絶大であり

一時期は袁紹をも凌ぐ最大派閥でした。


呂布、張邈、楊奉ようほう韓暹かんせん、陳宮、於夫羅おふらなど

曹操にやられた奴らが頼ってくるのは

たいてい袁術です。確かな影響力。


が、その割に三国志の記述が

余りにもペラッペラすぎます。


奔放に振舞っていた青年時代から

「はなはだ態度を改めた」とあったり

侠気をもって知られただの書かれてるので

本来の袁術像はもっと

マジメだったと思うわけです。


孫権に嫁いだ袁術の娘は

奥ゆかしい人格者だったっぽいので

袁術の教育が良かったとも思えますし、

孫策も袁術に息子のように

可愛がられていたようで

どうもそんな悪い人に思えません。


まだ、陶謙や公孫瓚のように

劉備に味方していたのなら

よく書かれてたのかもしれないですが

よりによって曹操と劉備の

両方と敵対してしまっているので

史家達の格好のサンドバッグになってます。


結局は破滅した袁術と懇意にしていたら

孫家もイメージが悪くなっちゃうので

ケチな袁術は孫堅を利用したばかりか

孫策との約束をも平気で破り、

英邁な孫策は袁術に幻滅したように

印象操作されてるんじゃないかと。




プライドめっちゃ高い袁家の御曹司で、

揚州に天子の都を置く史上初の皇帝に

ならんとする野望を抱き、

もしかしたら孫権が参考にしたかもしれない

淮南の仲帝・袁術伝でした。


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