六、子孫の処遇
三国志6.
妻子依術故吏廬江太守劉勳,孫策破勳,復見收視。術女入孫權宮,子燿拜郎中,燿女又配於權子奮。
(訳)
袁術の妻子は、
縁のある官吏であった
廬江太守の劉勲を頼った。
孫策は劉勲を破り、
再び彼らの面倒を見た。
袁術の娘は孫権の後宮に入り、
子の袁燿は呉に郎中として拝し
袁燿の娘はまた、孫権の子の
孫奮に配偶された。
後漢書7.
術因欲北至青州從袁譚,曹操使劉備徼之,不得過,復走還壽春。六月,至江亭。坐簀床而歎曰:「袁術乃至是乎!」因憤慨結病,歐血死。妻子依故吏廬江太守劉勳。孫策破勳,復見收視,術女入孫權宮,子曜仕吳為郎中。
(訳)
袁術は北の青州へと向かい
袁譚(袁紹の長男)に従おうとしたが
曹操は劉備を遣わしてこれを遮り、
通過することが出来ずに、
再び寿春へと逃げ帰った。
(199年の)六月、江亭に至った。
袁術は床敷に座し、歎息して言った。
「袁術ともあろうものが、
このような事になろうとは!!」
憤慨して病に罹り、血を吐いて死んだ。
袁術の妻子は、
縁のある官吏であった
廬江太守の劉勲を頼った。
孫策は劉勲を破り、
再び彼らの面倒を見た。
袁術の娘は孫権の後宮に入り、
子の袁曜は呉に郎中として仕えた。
(註釈)
袁術の子の名前が、
三国志では袁「燿」
後漢書では袁「曜」になってます。
また、大将軍の張勲と
廬江太守の劉勲は別人で、
ちくま訳では、この二人が
混同されてる箇所が見られるので注意。
袁術は、同族の袁紹ですらも
「我が家の奴僕」と称したり、
「この袁術ともあろうものが!!」
と、零落した自分自身に対して
怒りを露わにしたりするなど、
めちゃくちゃプライド高いですね。
宦官の家から出た曹操ごときの
下風に立つのは、彼の強固なプライドが
許さなかったんでしょうか。
袁術の娘の袁夫人は、
父亡き後孫策に保護され、
孫権の後宮に入ります。
父・袁術とは違って、
性格は奥ゆかしい印象です。
199年以前の生まれで
少なくとも251年までは生きています。
孫権の最愛の妻、歩夫人の亡き後
正皇后への打診があったものの、
男子がなかったために拒否し、
その後、奴隷上がりの藩夫人に
讒言されてしまいます。
ちくま三国志で
「袁夫人は藩夫人に讒言され殺された」とあり
三国志のゲーム等でも彼女の紹介文に
非業の死を遂げた……的なニュアンスが
語られていたのですが、
どうやらこれは誤訳だったらしいです。
原文は
「性險妬容媚,自始至卒,譖害袁夫人等甚衆」
『(藩夫人の)性格は陰険で、
容貌の美しい者を妬んで
(孫権に寵愛された)始めから
死に至るまでに、袁夫人を始めとする
甚だ多くの人々を讒言した』……
って感じ、かな?
「譖害」の部分を
讒言で殺害した、的に訳してありますが
この場合の「害」は必ずしも
殺す、という意味に繋がらないそうな。
袁夫人が生きててよかったぁ!!