五、徐仲応
後漢書5.
建安二年,因河內張炯符命,遂果僭號,自稱「仲家」。以九江太守為淮南尹,置公卿百官,郊祀天地。乃遣使以竊號告呂布,并為子娉布女。布執術使送許。術大怒,遣其將張勳、橋蕤攻布,大敗而還。術又率兵擊陳國,誘殺其王寵及相駱俊,曹操乃自征之。術聞大駭,即走度淮,留張勳、橋蕤於蘄陽,以拒操。擊破斬蕤,而勳退走。術兵弱,大將死,眾情離叛。加天旱歲荒,士民凍餒,江、淮閒相食殆盡。時舒仲應為術沛相,術以米十萬斛與為軍糧,仲應悉散以給飢民。術聞怒,陳兵將斬之。仲應曰:「知當必死,故為之耳。寧可以一人之命,救百姓於塗炭。」術下馬牽之曰:「仲應,足下獨欲享天下重名,不與吾共之邪?」
(訳)
建安二年(197年)、
河内の張炯の符命に因り
とうとう袁術は称号し
「仲家」を自称した。
九江太守を「淮南尹」として
公家百官を置き、天地を祀った。
そうして使者を遣わして
密かに称号した事を呂布に告げさせ、
併せて自身の子に
呂布の娘を娶らせようとした。
呂布は袁術の使者を捕えて許に送った。
袁術は激怒して、その将軍の
張勲、橋蕤を派遣して呂布を攻撃させたが
大敗を喫してしまい、軍勢は帰還した。
袁術はまた兵を率いて陳国を攻撃し、
陳王の劉寵及び、相の駱俊を誘殺し、
そこで曹操自らがこれを征伐した。
袁術は(曹操が来たことを)聞いて
大いに驚き、即座に淮南へ逃げ越えて
張勲、橋蕤を蘄陽に留めて曹操を防がせた。
橋蕤は曹操に撃破されて斬られ、
張勲は敗走した。
袁術の兵は弱く、大将(橋蕤)の死で
衆人の心は離叛した。
加えて、旱が続いて土地が荒れ、
士民は凍え飢えて、長江・淮水の間では
殆ど全ての者が互いに喰らい合った。
この時、袁術から
沛の相に任命された舒仲応は、
袁術から米十万斛を
軍糧として与えられていたが、
仲応はその悉くをばら撒いて
飢えた民に補給した。
袁術はこれを聞いて怒り、
兵を連ねて彼を斬ろうとした。
仲応は言った。
「必ずや死ぬことはわかっておりました。
だから、こうしただけの事です。
私一人の命で、百姓を途端の苦しみから
救えるのならば、本望です」
袁術は下馬して
その手を取って言った。
「仲応よ、足下は天下の重名を独占し
吾とともにそれを分かち合おうとは
してくれぬのかね……?」
(註釈)
とても内容の濃い記述でした。
郊祀は祭壇をたてて
天地を祀る儀式で、漢代以降の皇帝は
大体みんなやってたみたいです。
皇帝・袁術の置いた淮南尹は、
漢の京兆尹を意識してる感がスゴイ。
緑色の制服に身を包んだ
花京尹とかもありそう(ねぇよ
西漢にとっての首都・長安が、
袁術の「仲」にとっては寿春になり、
首都一帯の行政の長は
「尹」と称して特別扱い、
当然ながら、漢のスタイルを模倣して
袁術も踏襲していく感じです。
呂布に使者の韓胤を斬られてしまい
怒った袁術が攻めてくるのは、
呂布伝で見た内容と同じですね。
陳珪の策略で、楊奉と韓暹が寝返ったために
張勲と橋蕤が呂布に惨敗してしまうのも
既に呂布伝で見てきた内容と同様ですが、
近い時期に袁術本人は陳国を攻めてたようです。
これは「三国志」にはなかった情報です。
陳国の王・劉寵と
陳国の相・駱俊を暗殺する事に
袁術は成功しています。
袁術って、直接の戦術指揮能力より
こういう謀計の方に長けてるイメージです。
「英雄記」では
呂布と劉備を仲違いさせたのも
袁術主導っぽく書かれてましたし
袁紹や曹操とは違って、
軍隊を動かして侵略制圧することに
あんまり価値を見出してない印象もあり。
陳宮も実は、袁術のこのへんを
評価してたのかも……
橋蕤は、前にも言いましたが
呂布に負けた時に
生け捕られていたはずなのに、
その後の陳国攻めに
ちゃっかり帯同しています。
何故さらっと釈放されてるんだ??
しかも結局曹操に斬られてるし……
後漢書の作者的には
別に呂布にやられようが
曹操にやられようが、
どっちでもいいや……くらいの
扱いなんでしょうか……かわいそう……
ちなみに彼を討ち取ったのは
曹操の五将軍の一人、于禁です。
また、舒仲応、袁術伝読むまで
全く知らない人でしたが
「俺一人の命で民が救われるなら本望だ!」
って、めちゃくちゃカッコいいですね。
呉書孫賁伝に舒邵、字を仲膺という
人物が出てくるのですが、
この舒邵と、舒仲応が
同一人物とする説が有力みたいです。
舒仲応?って言われてもピンときませんが
舒邵、って言われると、ああ!ってなりました。
ゲームの三國志で見覚えが(そこかい