四、帝位僭称
三国志4.
興平二年冬,天子敗於曹陽。術會羣下謂曰:「今劉氏微弱,海內鼎沸。吾家四世公輔,百姓所歸,欲應天順民,於諸君意如何?」衆莫敢對。主簿閻象進曰:「昔周自后稷至于文王,積德累功,參分天下有其二,猶服事殷。明公雖弈世克昌,未若有周之盛,漢室雖微,未若殷紂之暴也。」術嘿然不恱。用河內張烱之符命,遂僭號,
(訳)
興平二年(195年)の冬、
天子は曹陽に於いて(李傕らに)敗北した。
袁術は配下の者達を集めて謂った。
「今、劉氏が衰微し海内は鼎沸しておる。
我が家系は四代に渡って三公を輩出し
百姓から頼りにされており、
天意に応じ、民の期待に順じたい
(皇帝に即位したい)と思うが、
諸君らはどのように考えておるのか?」
誰も思い切って答えられなかったが、
主簿の閻象が進み出て言った。
「昔、周は后稷から文王に至るまで
徳を積み功を累ねて
天下の三分の二を有しながらも
なお殷に従服しておりました。
明公(袁術)は代々繁栄されておりますが
いまだ周の隆盛には及ばず、
漢室が衰えたと雖も、いまだ
殷の紂王の若くの暴虐には
至っておりません」
袁術は黙りこくって
不愉快な様子であった。
河内の張烱の符命を用いて
とうとう帝号を僭称した。(197年)
(註釈)
主簿の閻象は、日本語読みでは
袁紹と同じ響きなので紛らわしいですね。
197年に袁術は皇帝に即位しましたが
後漢の献帝がまだ健在です。
袁術は献帝を完全にスルーしているのか、
はたまた後から禅譲を迫る気でいたのか、
定かではありません。