三、陳珪にフラれる
三国志3.
時沛相下邳陳珪,故太尉球弟子也。術與珪俱公族子孫,少共交游,書與珪曰:「昔秦失其政,天下羣雄爭而取之,兼智勇者卒受其歸。今世事紛擾,復有瓦解之勢矣,誠英乂有為之時也。與足下舊交,豈肯左右之乎?若集大事,子實為吾心膂。」珪中子應時在下邳,術並脅質應,圖必致珪。珪荅書曰:「昔秦末世,肆暴恣情,虐流天下,毒被生民,下不堪命,故遂土崩。今雖季世,未有亡秦苛暴之亂也。曹將軍神武應期,興復典刑,將撥平凶慝,清定海內,信有徵矣。以為足下當戮力同心,匡翼漢室,而陰謀不軌,以身試禍,豈不痛哉!若迷而知反,尚可以免。吾備舊知,故陳至情,雖逆於耳,肉骨之惠也。欲吾營私阿附,有犯死不能也。」
(訳)
この時の沛の相は下邳の陳珪で
かつての太尉の陳球の弟の子であった。
袁術と陳珪は公族の子孫らと
若い頃共に交遊しており、
そこで陳珪に書状を与えて言った。
「昔、秦が失政を行い、
天下の群雄が争いて政権を奪い合ったが
結局、智勇を兼ね備えた者に帰結した。
今、世の中は紛擾して
再び瓦解の情勢にあり、
誠に英雄が行動を起こす時だ。
足下とは旧交があり、
左右(側近になる事・助け)を
承知いただけるだろうね?
もし大事を成し遂げた時には
君はまさしく、私の腹心となるだろう」
陳珪の中子の陳応は当時下邳にいたが、
袁術は並行して陳応を脅して人質にし、
陳珪を必ずや招致せんと図った。
陳珪は返書にて述べた。
「かつて、秦はその末年の世に
欲しいままに暴力を振るい
感情の赴くままに従って
暴虐は天下に溢れ、民は荼毒を被って
下は命令に堪える事ができず、
そのため、遂に崩壊したのです。
今は末世と雖も、
いまだ秦の滅びた時のような
苛酷、暴虐なる動乱は起きておりません。
曹将軍は
神の如き武勇を持って期に応じ
古来よりの規範を復興させ、
凶賊を平定して海内を清め
安定させんとしている事は
誠に明らかでございます。
足下は(曹操と)戮力同心して事に当り
漢王室を匡翼するお立場の筈が
陰かに反逆を図られるとは、
その身を以って禍を試されようとは
なんと痛ましいことでありましょうか!
もし混迷すれども、ご自身の反逆を
弁えておられるならば、まだ
災難を逃れることが出来ましょう。
吾は旧知であるからこそ
心情を披瀝致しまして、
耳に逆らう事を申しましても
骨肉の情から出た言葉です。
ご自身の陣営に吾を
阿附なさろうとされても、
死んでも左様な事は出来かねます」
(註釈)
昔馴染みの陳珪に
ラブコールを送った袁術ですが
「死んでもお前の味方になぞなるか」
と、一蹴されています。
この直後に195年って書かれてるので
袁術が陳珪を誘ったのは
194年の、曹操の陶謙攻めの
時期あたりでしょうか。
陳珪も「曹操は神のような武勇」とか
「いにしえの規範を復興させ」
などと言ってますが、
この頃は曹操が徐州の人を
万単位で殺してた時期です。
当時はまだ献帝を迎えてもいないので、
これは陳寿が事実から遡って
陳珪に言わせてるだけか、
陳珪が体良く断る口実に
曹操の名前を挙げただけかなー、と。
陳珪・陳登が曹操に取り入るのは
帝を奉戴してから(196以降)だと思うので。