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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第六、袁術伝
137/603

註三、馬日磾

註3.

三輔決錄注曰:日磾字翁叔,馬融之族子。少傳融業,以才學進。與楊彪、盧植、蔡邕等典校中書,歷位九卿,遂登台輔。

獻帝春秋曰:術從日磾借節觀之,因奪不還,備軍中千餘人,使促辟之。日磾謂術曰:「卿家先世諸公,辟士云何,而言促之,謂公府掾可劫得乎!」從術求去,而術留之不遣;旣以失節屈辱,憂恚而死。


(訳)

三輔決録注にいう。

馬日磾ばじつていは字を翁叔おうしゅくといい、馬融ばゆうの族子である。


若くして馬融の学業を受け継いで

学才によって昇進した。


楊彪ようひょう盧植ろしょく蔡邕さいようらとともに

宮中の書物の校訂し、九卿の位を歴任して

とうとう台輔(三公)に登った。


献帝春秋にいう、

袁術は馬日磾から節を借りてこれを観たが

奪い取って返却せず、軍中の※千人余りの

名を書き並べて、招辟しょうへきを督促した。


※後漢書の引く献帝春秋及び

資治通鑑では「十人」となっている。


馬日磾は袁術に謂った。

「貴家のご先祖の諸公が

士を招聘する際は、どうなさいましたか?


彼らの招辟を督促するということは、

三公の属官の地位を、脅して

得ようというつもりなのですか!」


馬日磾は袁術のもとから去る事を求めたが

袁術は拘留して彼を帰さず、

馬日磾は節を失う屈辱を受けて

憂いと怒りによって死んだ。



(註釈)

苗字が馬、名前が日磾じつていです。

二文字名前は珍しいですね。


前漢に金日磾きんじつてい、あざなは翁叔おうしゅく

めちゃくちゃソックリな名前の人が

いるんですが、彼を意識してるのかな。


中国語のヤ○ー質問箱(?)みたいなやつに

金日磾と馬日磾は同一人物なの?

っていう質問がありました。

やっぱ考えること一緒なのねぇw


演義では、第7回で

袁紹と公孫瓚に対しての

停戦の使者として初登場。


馬融ばゆうは馬超と同様に

馬援ばえんの子孫に当たる人物で、

当代有数の学者として著名であり

宮廷の図書館で著述を専らにしておりました。


馬日磾は馬融の学業を継承して

高い地位まで登ったようです。


また馬融の娘は袁術の叔父の

袁隗えんかいに嫁いでおり、

馬家には袁家とのパイプがありました。


袁術が馬日磾にせっついたのも

それなりに旧交があったゆえで、

彼が融通を利かせて、自分の部署に

俺んとこの人間を使ってくれる、という

そういった希望的観測が

あったんじゃないでしょうか。


(袁術が)皇帝になるための下準備として

権力の移行を、彼を通して

スムーズに行いたかったとか?


馬日磾は結局、孫策そんさく華歆かきんを招辟し、

その事から「袁術に媚びやがって!」

と、孔融に激烈な非難を浴びて

きちんと弔われなかったのは

以前述べた通りであります。


孫策が官界に参入する

きっかけを作った?という事で

馬日磾は孫策伝にも出てきます。


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