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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第六、袁術伝
135/603

二、袁術九江へ

三国志2.

引軍入陳留。太祖與紹合擊,大破術軍。術以餘衆奔九江,殺楊州刺史陳溫,領其州。以張勳、橋蕤等為大將軍。李傕入長安,欲結術為援,以術為左將軍,封陽翟侯,假節,遣太傅馬日磾因循行拜授。術奪日磾節,拘留不遣。


(訳)

袁術は軍を引いて陳留に入国した。


太祖は袁紹と連合して攻撃し

袁術の軍勢を大破した。


袁術は敗残の兵らと九江へ奔走し、

揚州刺史の陳温を殺害し揚州を領し

張勲ちょうくん橋蕤きょうずいらを大将軍に任命した。


李傕らは長安に入ると

袁術と結んで助けにしようとし

袁術を左将軍に任じ、陽翟ようてき侯に封じて

節を仮して、太傅の馬日磾ばじつていを派遣して

巡行させ(官爵を)拝受させようとした。


袁術は馬日磾の節を奪い取って

彼を拘留して帰さなかった。


(註釈)

三国志袁術伝には書かれてませんが、

袁術と劉表のドンパチのなかで

董卓を追い詰めた英雄孫堅が

あっさりとこの世から姿を消しました。


後漢書袁術伝には記述があり

孫堅の死は192年、

(191年説のが濃厚)


父・孫堅が斃れたことにより

ここで長男の孫策そんさくが起ちます。

この時まだ数えで17〜18歳、

高校2年生くらいでした。


192年4月には

呂布が長安で董卓を刺殺し

6月に李傕が長安を襲撃、

曹操は青州で黄巾族100万を破るなど

情勢が大きく動いています。


193年春、

袁紹ー曹操ー劉表りゅうひょうのラインの前に

袁術は徐々に劣勢に立たされてしまい

荊州南陽から揚州九江へと逃走しました。


呂布が袁術のところに来たのは恐らく

192年秋頃でしょうが、

この時点で袁術と呂布で手を組めていたら

曹操ももう少し苦戦したかもしれません。


「節」は独断専行権のあかしです。


馬日磾ばじつていは158頁にも

ちょっとだけ出てきましたが

李傕りかく政権下の三公です。


袁術は彼をとっ捕まえて、

配下を要職に就けるよう脅しました。

その中に孫策が含まれてます。



続いて後漢書です。


後漢書の方が情報量多い。


後漢書2.

術從兄紹因堅討卓未反,遠,遣其將會稽周昕奪堅豫州。術怒,擊昕走之。紹議欲立劉虞為帝,術好放縱,憚立長君,託以公義不肯同,積此釁隙遂成。乃各外交黨援,以相圖謀,術結公孫瓚,而紹連劉表。豪桀多附於紹,術怒曰:「群豎不吾從,而從吾家奴乎!」又與公孫瓚書,云紹非袁氏子,紹聞大怒。初平三年,術遣孫堅擊劉表於襄陽,堅戰死。公孫瓚使劉備與術合謀共逼紹,紹與曹操會擊,皆破之。四年,術引軍入陳留,屯封丘。黑山餘賊及匈奴於扶羅等佐術,與曹操戰於匡亭,大敗。術退保雍丘,又將其餘眾奔九江,殺楊州刺史陳溫而自領之,又兼稱徐州伯。李傕入長安,欲結術為援,乃授以左將軍,假節,封陽翟侯。


(訳)

袁術の従兄の袁紹は

孫堅が董卓の討伐に出向いて

州に戻らない事に乗じ

遠方まで会稽かいけい周昕しゅうきんを遣って

孫堅の任地の豫州を奪った。


袁術は怒り、周昕を攻撃して

これを敗走させた。


袁紹は劉虞りゅうぐを帝に擁立せんと議したが

袁術は放縦を好んで、

長君(劉虞)の擁立を憚り

公義に託けて肯じず、

こうした事が積もり積もって

かくして(袁紹と袁術は)不仲になった。


そこで、それぞれ外部と交わって

身内として援助せんとお互いに図謀し

袁術は公孫瓚こうそんさんと結び、袁紹は劉表りゅうひょうと結んだ。


豪傑の多くは袁紹に付き、

袁術は怒って言った。


「小僧どもが、俺に従わずに

我が家の奴僕(袁紹)に従うというのか!!」


また、公孫瓚に書状を与えて

袁紹は袁氏の子ではないと述べ

袁紹はこれを聞いて激怒した。


初平三年(192年)、

袁術は孫堅を派遣して

襄陽じょうように於いて劉表を攻撃させたが

孫堅は戦死してしまった。


公孫瓚は劉備を遣わして

袁術と共謀させて袁紹に当たらせたが

袁紹は曹操とともに迎え撃ち

みなこれを破った。


四年(193年)、

袁術は軍を引いて陳留に入国し、

封丘ほうきゅうに駐屯した。


黒山賊の残党及び

匈奴の於扶羅おふららは袁術を助け、

曹操と匡亭きょうていで戦ったが、大敗した。


袁術は退却して雍丘ようきゅうを保ち

また余勢を引き連れて九江へ奔り、

揚州刺史の陳温ちんおんを殺害して

揚州を自らの領地とし、

また一方で徐州牧を自称した。


李傕りかくは長安へ入ると

袁術と結んで助けにしようとし、

そこで袁術に左将軍位を授けて

節を仮し、陽翟ようてき侯に封じた。




(註釈)

袁紹と袁術仲悪すぎです。


中心選手がこの有様じゃ

どのみち反董卓連合なんて

長続きする筈なかったでしょうね。



袁紹は妾の子らしいので

袁術は「吾家奴《我が家の奴僕》」と称してますね。


他にも公孫瓚に対して

「卑しい袁紹なんざ

袁家の人間じゃねぇよ」と

めっちゃ罵ってます。


袁紹も袁紹で勝手に豫州攻めて

自分から騒ぎ大きくしてるので

どっちもどっちな気がします。


この時代の豫州刺史っていうと

孔伷こうちゅうがいる筈なんですが、

袁紹と袁術が豫州刺史を巡って

喧嘩してるということは、

孔伷は亡くなっており、

豫州刺史が空位になったと考えられます。


豫州刺史を巡るドンパチの中で

公孫瓚こうそんさんの弟の公孫越こうそんえつが亡くなっており、

これにより、袁紹と公孫瓚の対立も

決定的なものとなりました。



董卓の乱が鎮まっても

今度は袁家の派閥争いが始まり、

曹操、劉備、孫堅・孫策と、三国の祖たちが

この傍迷惑な兄弟喧嘩に巻き込まれながら

それぞれ力を養ってゆくのです。



陳留を攻めた袁術は

曹操に負けるとは思ってなかったでしょうが

青州黄巾兵を下して、予想外に

曹操軍がパワーアップしていたため

かなり面食らったと思われます。




また、匈奴(異民族)の※於夫羅おふら

なにげに重要人物です。


(※後漢書では於扶羅とする)


無双にも登場する才媛、蔡文姫さいぶんき

かつて匈奴に拉致されてしまい

於夫羅の子の劉豹りゅうひょう

一時期婚姻関係にあったそうです。


於夫羅の一族は漢に帰化して

劉姓になるのですが、

彼の孫が五胡十六国時代の

戦乱の端緒を開く劉淵りゅうえんです。


三国時代が終わった後、中華は

異民族にズタボロにされてしまい

再び長い群雄割拠の時代が始まります。


184年の黄巾の乱から

隋が統一する589年までの400年を、

魏晋南北朝時代ともいいます。



揚州刺史の陳温については

この後の裴註にて触れます。

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