表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
淡々三国志  作者: ンバ
魏書第六、袁術伝
134/603

註一、二袁対立

註1.

吳書曰:時議者以靈帝失道,使天下叛亂,少帝幼弱,為賊臣所立,又不識母氏所出。幽州牧劉虞宿有德望,紹等欲立之以安當時,使人報術。

術觀漢室衰陵,陰懷異志,故外託公義以拒紹。紹復與術書曰:「前與韓文節共建永世之道,欲海內見再興之主。今西名有幼君,無血脉之屬,公卿以下皆媚事卓,安可復信!但當使兵往屯關要,皆自蹙死於西。東立聖君,太平可兾,如何有疑!又室家見戮,不念子胥,可復北靣乎?違天不祥,願詳思之。」術荅曰:「聖主聦叡,有周成之質。賊卓因危亂之際,威服百寮,此乃漢家小厄之會。亂尚未厭,復欲興之。乃云今主『無血脉之屬』,豈不誣乎!先人以來,弈世相承,忠義為先。太傅公仁慈惻隱,雖知賊卓必為禍害,以信徇義,不忍去也。門戶滅絕,死亡流漫,幸蒙遠近來相赴助,不因此時上討國賊,下刷家恥,而圖於此,非所聞也。又曰『室家見戮,可復北靣』,此卓所為,豈國家哉?君命,天也,天不可讎,況非君命乎!慺慺赤心,志在滅卓,不識其他。」



(訳)

呉書にいう、この時論者は

霊帝が失政により天下の叛乱を招き、

少帝(献帝)は幼弱で、賊臣(董卓)に

擁立されている上、母親の出自も

知られていないと議した。


幽州牧の劉虞りゅうぐには兼ねてより徳望があり

袁紹らは彼を(皇帝に)立てて

当時の状況を落ち着かせようとし、

人を使って袁術に報せた。


袁術は漢室の衰退を観て密かに異心を抱き

故に公義にかこつけて袁紹を拒んだ。


袁紹は再度袁術に書状を与えて述べた。


「かつて韓文節(州牧韓馥(かんふく))とともに

(漢室)永世の道を打ち建てて

海内に再興の主を見顕みあらわわせようとした。


今幼君は長安におわすが

漢室に属する血脈でなく、

公家以下全員が董卓に媚び諂い

どうしてまた信頼できようか!!


ただ兵を往かせて要所に駐屯させれば

皆自ずから西方は死に瀕する。


東に聖君を立てれば

太平の世を願えるというのに

なにゆえ猜疑するのだ!?


また、家の人間を

(董卓に)殺されておきながら

伍子胥の例を思い起こすことなく

また北に面するというのか?


天意に違えるのは不祥である、

願わくは熟慮されたし」


袁術は答えて述べた。


「聖主は聰明であられ

周の成王の資質をお持ちだ。


逆賊董卓が都の混乱に乗じた際

百官を威圧して服従させたが

これは乃ち漢家の小厄の時だ。


動乱は今尚いまだに鎮まっておらぬのに

再び起こそうというのか。


今、主に対して

「漢に属する血脈でない」と云うが

一体これが讒誣ざんぶでないと云えるかね!


先祖以来、代々相受け継ぎ

(我が家は)忠義を第一としてきた。


太傅たいふ公(袁隗えんかい。袁術と袁紹の叔父)

は仁愛溢れて憐れみ深く

逆賊董卓によって必ずや

禍害を被ると知りつつも、信義に従い

洛陽を去るに忍びなかったのだ。


門戸は絶え、一門の者は

死んだり流浪したりしているが

幸いにも遠近から来たりて

ともに救援に赴いてくれた。


この機に乗じて、上は国賊を討たず、

下は一家の恥を雪がずに

このような事(新たな皇帝を擁立する)を

計画するなど、聞くに値せん。


またこうも云っておったな。

『家の人間を殺されておきながら

また北に面するというのか』と。


これは董卓の仕業であって

どうして国家の責任と云えようか?

君命は天だ。天に仇為す事は出来ぬ、

況してや、君命では無かったのだぞ!!


私は恭敬なる赤心を以て、

志は董卓を誅滅することにあり

その他の事など知ったことでは無いわ」


(註釈)

少帝・劉弁は

(皇帝にカウントしない場合もある)

何皇后の子であり

何皇后は時の大将軍、何進の異母妹です。


何皇后の身長は七尺一寸(163、171cm)

たぶん背が高くて美人だったために

霊帝から寵愛を受けました。


実家は「屠殺業を営んでいた」とあり

もともと卑しい身分だったようです。


何皇后は霊帝の死後、

幼い劉弁を帝位に就け

自身は摂政として君臨しますが

董卓に親子ともども

幽閉・毒殺されてしまい、


霊帝と王美人の子である

献帝・劉協が新たに擁立されます。


王美人ははじめ、下級の女官として

後宮に入ったため、

袁紹から「母親の出自も知られていない」

と称されています。



袁紹は韓馥かんふくらとともに

皇室の宗族で、声望のある

劉虞りゅうぐを皇帝に迎えようとして

袁術にも報告しますが、

袁術は称帝の野心を抱き、

袁紹の言葉に耳を貸しませんでした。


この時の書状のやりとりは、

ちくま訳だと両者ともに

超畏まったな敬語なんですが

袁紹と袁術は仲悪いので、演出として

ケンカ腰な感じで訳してみました。


この書物は呉の人が書いたものなので

その視点から見ると

「袁術は後漢の逆臣」

という認識になってるんですね。




伍子胥ごししょは諱をうんといい

春秋戦国時代の呉の人です。


楚の平王に一家を殺された恨みを忘れず

既に骸になった平王を三百回も鞭打ったため

「死人に鞭打つ」の語源になりました。


呉越同舟、臥薪嘗胆、捲土重来

などの四字熟語の出典もこの時代です。



袁紹は一門の人間が殺されたにも関わらず

董卓に靡こうとしている袁術を見て

「オマエに伍子胥のような気骨はねーのか!」

と怒ってるわけです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ