一、飛鷹走狗
袁術伝。呂布伝と同様に、後漢書袁術伝も一緒に訳してます。
三国志1.
袁術字公路,司空逢子,紹之從弟也。以俠氣聞。舉孝廉,除郎中,歷職內外,後為折衝校尉、虎賁中郎將。董卓之將廢帝,以術為後將軍;術亦畏卓之禍,出奔南陽。會長沙太守孫堅殺南陽太守張咨,術得據其郡。南陽戶口數百萬,而術奢淫肆欲,徵斂無度,百姓苦之。旣與紹有隙,又與劉表不平而北連公孫瓚;紹與瓚不和而南連劉表。其兄弟攜貳,舍近交遠如此。
(訳)
袁術はあざなを公路といい、
司空の袁逢の子で、袁紹の従弟である。
侠気を以て知られた。
孝廉に推挙されて郎中に任命され
内外の職を歴任し、のちに
折衝校尉、虎賁中郎將となった。
董卓が帝を廃そうとすると
袁術を後将軍とした。
袁術は一方で、董卓が禍を
引き起こすことを畏れ、南陽に出奔した。
ちょうど、長沙太守の孫堅が
南陽太守の張咨を殺したため
袁術は南陽を拠点にすることが出来た。
南陽の戸口は数百万だったが、
袁術は奢侈淫佚で欲望のままに振る舞い
税の徴収に限度がなく、百姓は困苦した。
この時既に、袁紹との仲には罅が入っており
また、劉表とも不和だったため、
北の公孫瓚と連合した。
袁紹の方は公孫瓚と不和であり、
南方の劉表と連合した。
袁紹と袁術の兄弟が反目し合い、
近きを捨てて、遠方と交わる様は
かくの如くであった。
(註釈)
後漢代の行政のトップは
太尉(軍事担当)
司徒(行政担当)
司空(司法担当)
です。
これをまとめて「三公」といいます。
袁紹と袁術の家系は、
四代に渡って三公を輩出した
超絶エリートの家柄であります。
袁術も順調に出世コースに乗ってましたが
董卓が洛陽に入ると、
ビビって南陽に逃げます。
反董卓連合が結成されるに及んで
当時、長沙の太守だった孫堅も
董卓討伐の兵を挙げますが
兵糧の供給を断った
南陽太守の張咨を殺害します。
ちょうどそこへ袁術が逃げてきたため
彼は太守不在の南陽を支配下に置き、
孫堅と連合して董卓に当たる事になりました。
曹操と孫堅は徐栄に敗れ、
曹操は一旦引き去ってしまいますが
孫堅は袁術のサポートのお陰で
戦線を維持することが出来、
見事、陽人において董卓の軍勢を
撃破することに成功しています。
三国志袁術伝では、孫堅の事には触れずに
袁術のダメダメ君主ぶりを
アピールしています。
袁紹と袁術は身内同士ですが
手を組まずに遠交近攻策を執りました。
袁紹-曹操-劉表
袁術-孫堅-公孫瓚(劉備)-陶謙
こんな感じの対立構図になっています。
後漢書1.
袁術字公路,汝南汝陽人,司空逢之子也。少以俠氣聞,數與諸公子飛鷹走狗,後頗折節。舉孝廉,累遷至河南尹、虎賁中郎將。
時董卓將欲廢立,以術為後將軍。術畏卓之禍,出奔南陽。會長沙太守孫堅殺南陽太守張咨,引兵從術。劉表上術為南陽太守,術又表堅領豫州刺史,使率荊、豫之卒,擊破董卓於陽人。
(訳)
袁術はあざなを公路といい、
汝南郡の汝陽県の人で
司空の袁逢の子である。
若い頃から侠気を以て知られ
たびたび諸公の子らとともに
狩りをして(遊び耽って)いたが
後になって、甚だ態度を改めた。
孝廉に推挙され、
だんだん昇進して河南尹に至り
虎賁中郎將となった。
董卓が帝を廃立しようとすると、
袁術を後将軍とした。
袁術は董卓が禍を引き起こすのを畏れて
南陽に出奔した。
ちょうど長沙太守の孫堅が
南陽太守の張咨を殺害し
兵を率いて袁術に従った。
劉表が上奏して
袁術は南陽太守となり、
袁術の方でもまた上表して
孫堅を豫州刺史とし、
荊州・豫州の兵卒を率いさせて
陽人において董卓を撃破した。
(註釈)
なぜ後漢書には袁術の出身が書いてあるのに
三国志には書いてないのかというと、
三国志では、袁紹と袁術が
同じ巻に入ってるからです。
三国志では、袁術とセットになってるのは
董卓・袁紹・劉表。
後漢書では、袁術とセットになってるのは
劉焉・呂布。
後漢書は、劉焉と袁術が
同類項だと思ってるんすね。
袁術は袁紹と一緒のほうが
わかりやすいんじゃないかな?
「飛鷹走狗」という四字熟語がありますが
後漢書の袁術伝が元ネタだったのか!!
鷹を飛ばし、ワンコを走らせて
狩りを楽しむ様子ですね。
のちに態度を改めた、とあるので
少年時代は遊んでばっかりでも
20歳くらいまでには
真面目になったんでしょうか。
袁術が主導で、孫堅を使って
董卓を破った感じに書かれてます。
董卓軍を破ったのは
孫堅でなく、袁術の手柄。
盟主の袁紹は何をしていたかというと
早々に董卓討伐を切り上げて、
領土を拡げる事に努めてました。
董卓から見たら、
逃げて行った袁紹や曹操よりも
孫堅を擁する袁術の方が
この時はずっと脅威に映ってたはず。
後漢書の袁術の方が
冒頭の部分だけ見ると
有能っぽく見えますね。