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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第七、呂布伝
132/603

まとめ

やっと訳し終わったーーーーっ!!!!


呂布伝だけで7万字くらい

あるんじゃないかな。


例によって年表にして

呂布の事績を振り返ります。



・160年以前?

呂布生まれる

(劉備よりほぼ間違いなく年上)




・???

勇猛さで并州に仕える。



・???

并州刺史の丁原から主簿に任命され

甚だ親愛される。



・189年

霊帝が崩御すると、丁原とともに洛陽へ。

何進の死後、董卓は丁原の軍勢を

手中に入れようと考え、呂布を招き入れる。

呂布は丁原を殺害し、

董卓から騎都尉に任じられ

親愛されて親子の契りを結ぶ。



・191年

呂布・胡軫らが陽人で孫堅に破られ

董卓は洛陽を焼いて長安へ逃げる。



・???

徐々に昇進して中郎将、都亭侯となる。

ある時、董卓の機嫌を害して

董卓から手戟を投げつけられ

呂布は咄嗟に躱したが

このことから董卓を恨むようになる。


董卓から後宮の守備を命じられるも

呂布は「董卓の侍女と私通」(三国志)

「董卓の傅役と密通」(後漢書)

しており、内心落ちつかなかった。



・192年

司徒の王允おういんの董卓暗殺計画に加担し

董卓を刺殺する。

王允から奮威将軍に任じられ

節を仮し、儀礼は三公に並んで

温侯に進封するが、

李傕らから攻められて長安を追われる。


呂布は、4月23日に董卓を誅し、

6月1日に洛陽を脱出した(英雄記)


郭汜と一騎打ちをする(英雄記)



・192〜194年

南陽の袁術に身を寄せる。


袁術は呂布を厚遇する(後漢書)

袁術は呂布の反復を憎む(三国志)


呂布は袁術のもとを去り

河内の張楊に身を寄せる(後漢書)


李傕らが呂布の首を賞金をかけて

張楊の配下から命を狙われる(後漢書)


張楊は呂布を保護して、

李傕らは呂布を潁川太守に任じる(英雄記)


袁紹のもとに身を投じて、

赤兎馬・成廉・魏越らとともに

常山で張燕の精鋭一万余、騎兵数千を破る。

呂布は増長して袁紹から疎まれ

袁紹は呂布を仮の司令校尉にする一方で

呂布を暗殺しようとするが、失敗。


呂布は人を使って

帷幕の中で太鼓と琴を鳴らさせて

その隙に袁紹のもとから脱出(後漢書)


袁紹を捨てて

張楊のもとへ走る途中で

陳留太守の張邈と交誼する。



・194年

曹操が陶謙の討伐に向かっている間

張邈・陳宮・許汜・王楷らが

呂布を招き入れて兗州で謀叛を起こし

鄄城けんじょう東阿とうあはんの三つの拠点だけが

曹操のために守衛する。


呂布は鄄城を攻撃するが

落とせず、濮陽に駐屯する(武帝紀)。


曹操と呂布は百余日対峙するが

蝗害が起きて兗州は飢餓に陥り

両軍ともに一時撤退する。


曹操は鄄城に帰還し、

呂布は乗氏で李進りしんに破られ

東の山陽へと向かう(武帝紀)。



・195年

曹操が定陶を攻撃し、

救援に駆けつけた呂布ともども

呉資・薛蘭せつらん李封りほうを破る。

呂布は陳宮とともに一万を率いて

東緡から曹操を攻めたが

伏兵や奇襲攻撃によって大敗を喫する。

呂布は夜に紛れて逃走し

曹操は再び定陶を攻めて諸県を平定(武帝紀)


敗れた呂布は

東の劉備のもとへ落ち延びる。

曹操は雍丘に張超を追い詰め、

張超は自殺、三族は皆殺しにされる。

張邈は袁術のもとに

救援を要請する途上で

兵の裏切りにより、殺される。



・195年?

呂布は劉備を厚遇して

妻に挨拶をさせて、酒を酌み交わす。

劉備は表面上は肯定しながら

呂布の言葉に一貫性がないのを見て

内心で呂布を煩わしく思っていた(英雄記)


・196年

袁術と劉備が争う。

呂布は下邳を襲撃して奪い取り、

劉備は引き返して呂布に降伏する。


劉備の中郎将で丹楊たんよう許耽きょたん

夜に司馬の章誑しょうきょうを遣って

呂布を招き入れ、呂布は張飛を大破して

劉備の妻子を捕える(英雄記)


袁術が呂布と結ばんとして書状を送り

娘との婚姻を認める(後漢書)


劉備を小沛に駐屯させて

呂布は自ら徐州刺史を名乗る。

袁術が紀霊ら三万の軍勢を派遣して

劉備を攻撃しようとすると

劉備は呂布に救援を要請する。

諸将は劉備を殺せと主張するが

呂布は反対して両軍の停戦に赴く。

呂布は営門に戟を掲げさせて

「一発で弓を命中させたら

攻撃をやめて帰れ」と紀霊らに言い

見事一発で的中させ、両軍を撤退させる。



6月、郝萌が反乱を起こすが

高順と曹性が鎮圧する。

呂布は曹性を尋問して

共犯者が陳宮である事を突き止めるが

陳宮が大将だったため不問に(英雄記)



・196〜197年?

洛陽に帰還した献帝が

呂布に書状を送って

迎えに来させようとするが

呂布の軍には備蓄がなかったため

上書してその意を伝える。

朝廷は呂布を平東将軍に任じ

平陶侯に封じようとするが、

使者が山陽の国境で書状を紛失してしまい

曹操が自ら書を遣って呂布を慰労し

呂布も献帝と曹操に書を奉じる。

曹操は奉車都尉の王則を遣って

改めて自作の印綬を贈り

平東将軍の位を呂布に拝命させる。

呂布も陳登を遣って

一本の綬を贈って謝意を示す(英雄記)



・197年

袁術が皇帝に即位した旨を

書状によって呂布に告げさせて

呂布の娘と婚儀を結ぼうとするが

沛の相陳珪に反対され、

呂布は袁術の使者の韓胤かんいん

許へ送って晒し首にする。

曹操が呂布を左将軍に任命し

陳登を許の使者に立てて

徐州牧の地位を求めるとともに

併せて感謝の意を奉じさせる。

曹操は陳登を扶持二千石

広陵太守に任命して

「呂布を長く養うことはできない。

東のことは君に任せた」と述べて

陳登に密かに兵を集めさせて

呂布の対処に当たらせる。

呂布は徐州牧の地位を

得られなかったことに怒って

陳登に「俺を曹操に売っただろう」と

机を戟を叩き斬って激昂する。

陳登が、

曹操が呂布を手元に置くのは

鷹を養うようなもので

満腹になればどこかへ飛び去ってしまう

(から、徐州牧にしなかった)

と言っていたことを告げて

呂布の気持ちはやっと解れる。


袁術は韓胤を殺された事に激怒して

張勲に大軍を与えて

韓暹かんせん楊奉ようほうらとともに呂布を攻撃させる。


張勲・橋蕤きょうずいらは

歩兵・騎兵数万の軍勢を率いて

七道から呂布を攻める(後漢書)


呂布の兵は三千、馬四百であり(後漢書)


呂布は、袁術が攻めてきたのは

陳珪の責任だとして、彼に咨る。

陳珪・陳登は即席の連合軍だから

袁術らは協力を長く維持できぬと判断し

韓暹、楊奉を物で釣る作戦を提案し

呂布はこの策を容れて

韓暹、楊奉に書状を送り、

彼らを寝返らせて張勲らを大破する。


橋蕤を生け捕りにする(後漢書)



・197年

呂布は韓暹、楊奉とともに寿春へ向かい

通過した場所で略奪を働いて

鐘離しょうりで大いに戦利品を獲得する。

袁術を侮辱する書き置きをして淮水を北上し

渡り終えたところで袁術が

五千の兵を率いて追いかけてくるも

呂布の兵はこれを嘲笑う。

瑯琊の相の蕭健しょうけんは莒を治所として

当初呂布を受け入れようとしなかったが

呂布の書状を見て主簿を遣わし

馬五頭を献上して呂布と結託する。

泰山の臧覇が蕭健を破り

呂布は高順の諌めを聞かずに

臧覇を攻めるが下せず、

臧覇と同盟を結ぶ(英雄記・後漢書)


・198年

呂布は兵に金を渡して

河内で馬を買わせようとするが

劉備の兵に奪われる(英雄記)


劉備は小沛で一万人を得る(先主伝)


呂布は再び曹操に叛いて袁術に味方し

高順を派遣して沛の劉備を攻撃する。

曹操は夏侯惇を派遣して

劉備を救援させるが、高順に敗北。

曹操は自ら下邳へ赴いて

呂布に降伏を促し、

呂布も応じようとするが、

陳宮たちが大反対したために

結局果たせなかった。


曹操は彭城ほうじょうを破って

その相の侯諧こうかいを虜にする。

下邳にて呂布は騎兵を率いて迎撃に出るが

曹操はこれを大破して

成廉を生け捕りにする。

呂布は曹操に連敗する(武帝紀)


陳宮は、曹操が遠征してきて

持久策を執ることはできないから

呂布が外に出て、陳宮が内を守り

挟み撃ちにすれば勝てると提案(後漢書)


呂布の妻は

陳宮は曹操から厚遇されてなお

裏切った男だから信用するな、

今行ったらもう二度と会えない

と言い、呂布は陳宮の策を用いなかった。

(後漢書)


許汜と王楷を派遣して

呂布は袁術に救援を求めるが

袁術との婚姻を断ったために

援軍を渋るのではと恐れて、

改めて娘に綺麗な格好をさせて

馬に縛り付けて、袁術の元へ

送り届けようとしたが、

曹操の兵に阻まれて結局果たせず。

呂布の妻は

陳宮と高順は仲が悪いから

二人が協力して城を守るわけがない、

考え直して欲しい、

私のことを顧みる必要はない、と主張。

呂布は迷って陳宮の策を用いなかった。

(英雄記)


曹操が下邳に攻め寄せてくると

陳宮は城を出て迎撃せよと提案したが

呂布は反対して城に籠ると主張。

攻撃が激しくなるに及んで

呂布が「殿に降伏するからやめてくれ」

と言いだしたため、陳宮に

「なんで曹操が殿なんですか、

ここで降服するのは、石に

卵を投げつけるようなもんですよ!?」

と叱られる。

(献帝春秋)


侯成の食客が馬十五匹を奪って

劉備のもとへ逃げようとしたため

侯成は追って馬を奪い返す。

このことを諸将が祝って、

侯成は酒と猪肉を用意して

呂布にも振る舞おうとするが

禁酒を命じていた呂布は激怒して

「俺を殺そうとしているのか!?」

と怒鳴りちらしたため、侯成は恐れて

下邳を包囲していた曹操に降る。

(九州春秋)


呂布は下邳にいた陳登の弟らを人質に取り

陳登を味方に引き込もうとするが

陳登は意を曲げずに攻撃を続ける。

刺姦の張弘が後難を恐れて

陳登の弟らを連れて下邳を脱出する。

(先賢行状)


曹操は下邳の城を落とせず

兵が疲弊してしまったため

一旦退却しようとするが、

荀攸と郭嘉の策を容れて

泗水・沂水を決壊させて

呂布を水攻めにする(武帝紀)


曹操は塹壕を掘って

三ヶ月呂布を包囲し、

呂布の諸将の心は次第に離れて、

侯成、宋憲、魏続らが

陳宮と高順を捕えて降伏する。


呂布は諸将の妻を寵愛し、謀叛される。

(英雄記)


呂布と麾下は白門楼の上に登ったが

攻撃が激しくなったために

楼を下りて曹操に降伏する。


呂布は麾下の者たちに

「私の首を取って曹操に降れ」と

命令するが、麾下たちは

呂布を殺せなかった(後漢書)


呂布は曹操に見え、

自分を生かして使うように主張し

曹操も頷きかけるが、

劉備が反対したため、

呂布は劉備に向かって叫ぶ、

「この餓鬼が一番信用ならない」(三国志)

「この大耳が一番信用ならない」(後漢書)

陳宮・高順ともども縊り殺され、

その首は許へと送られる。


曹操の主簿の王必が

呂布を活かすことに猛反対する(献帝春秋)


以上です。

註釈が多くて、一つの軸にまとめるの

かなり難しいですが

ンバの個人的な呂布の評価です。




戦闘★★★★★★★7


〜呂布の生涯戦績〜

●陽人(VS孫堅・袁術)※味方を妨害

●長安(VS李傕りかく

△長安(VS郭汜かくし)※一騎打ち

○常山(VS張燕ちょうえん

鄄城けんじょうVS夏侯惇かこうとん

濮陽ぼくよう(VS曹操)※優勢だったが糧尽きる

●乗氏(VS李進りしん

東緡とうこん(VS曹操)

定陶ていとう(VS曹操)

○下邳(VS張飛)

○下邳(VS郝萌かくほう)※高順の手柄

○下邳(VS張勲・橋蕤きょうずい

●泰山(VS臧覇ぞうは

○小沛(VS劉備)※高順の手柄

○小沛(VS夏侯惇)※高順の手柄

●彭城(VS曹操)

●下邳(VS曹操)※連戦連敗


17戦6勝9敗2分。


抜群の腕力と俊敏性を誇り

弓術・馬術に優れ、名馬赤兎を駆り

離れた位置から戟の小枝を射抜いたり、

董卓のボディーガードをしていたり、

郭汜と一騎打ちを演じて優勢だったり、

董卓の投げた手戟を躱したり、

「人中に呂布あり」「飛将」

「その前に敵無し」と称されるなど

その個人武力に於いては加点材料だらけです。


演義の呂布が醸し出す

最強武将のイメージは、正史においても

そこまで損なわれていませんが、

その軍は基本いつも兵糧が不足していて、

規律があるようにとても見えません。


まともな勝利は

張燕戦、張勲戦、張飛戦の三つで

(苗字が張の人には強いのか?)


陽人の孫堅戦は、他ならぬ呂布が

味方の胡軫を妨害したので、

黒星に含めるには微妙で

対曹操に最初以外全敗は仕方ないにしろ、

長安に攻め入ってきた李傕、

泰山の臧覇や夏侯惇・李進を抜けない等

意外と勝率は奮いません。


なので、きちんと統制された軍隊相手には

勝つことができない印象が拭えず……

騎馬隊が主力っぽいので

攻城戦になると奮わず、

開けた場所での野戦専門って雰囲気です。



確かに強いんですけど、

超一流まではいかないかな……

と判断して、★7です。




戦略★★2


丁原のもとで主簿になって

董卓に唆されて丁原を殺し、

王允に乗せられて董卓を殺し、

李傕らに攻められて長安から追い出され

袁術を頼るけど結局出て行き、

袁紹の下へ落ち延びるも出て行き、

張楊に身を寄せてもやっぱり出て行き、

張邈と組んで曹操の背後を襲うも

敗れて徐州の劉備を頼り

袁術の差し金で劉備の本拠地を襲撃し

「お米分けてあげるよ♪」との書状に

大喜びするも、袁術に攻められる劉備を助けて

袁術との政略婚を結ぼうとするも

やっぱり破棄して使者を殺し

キレた袁術を策使って撃退し

曹操に靡き、蕭建・臧覇と同盟を組むも

やっぱり曹操に背いて劉備を攻め

袁術に救援を頼んで

曹操に降りかけるけど、

臣下に反対されて曹操に連敗し

今一度降ろうとするけど

劉備の口添えにより、滅びました。


いったい誰と敵対してて

誰に味方しているのか

把握するのが難しい御仁です。

特に袁術への対応については

余りにもグダグダすぎて

目も当てられません。


「虎のように強いが、

目先には利益のことしかなく

歴史上に於いてこうした人物が

破滅しなかったためしはない」


というのが陳寿の評価です。


その時々の立ち回りを見るに

調子のいいことを抜かして

口八丁で場を切り抜ける事が多く、

大局に立っての判断力に

高い評価をつけることはできません。


後漢書の高順が

「あんたはいつも

考えなしだから失敗するんですよ。

今まで何回同じ事繰り返してるんすか」


って言ってましたが

全くその通りだと思います。




内政★★★★4


董卓を誅した後、三日天下でしたが

それなりにいい治世を行った?ようです。


丁原も当初、呂布を

事務官に任命してるんですが、

そもそも丁原本人が役人として

有能ではないようですし、

馬や糧秣、輜重をうまく回せてないので

管理能力はイマイチと言わざるを得ません。


個人的には、一軍人に過ぎなかった男が

人に唆されて董卓を討った事から

主君としての仕事をこなさなくては

いけなくなってしまい……


慣れない事に四苦八苦してるうち

自滅したんじゃないかな、

などと思っております。





人格★★★★4


自負心が強いために図々しく、

甘い話には光速で飛びつき、

危なくなれば口から出任せと

軽薄な感じは否めませんが、

張邈が曹操を捨ててでも

取り入るくらいには

人を惹きつけるモノを

持ってたのだと思います。


単純に「強いから」かもしれないですが。


軍勢を持ってからは

目先の利益に踊らされるのも

仕方ないと思うのですが、

いまだ経営者でなかった時代に

取り立ててくれた丁原を殺害しているのは

擁護することができません。


その軍勢も、数字確認できる

最大の規模で3000くらいなので、

劉備や孫堅と比較して

結局呂布に求心力がいまいち

足りてないのだと思われます。


奥さんには優しい、というのは

プラスポイントだと思ったのですが、

英雄記では、「長安で妻を捨てた」とか

「諸将の妻と不倫してた」とか

書かれているので、やっぱり

加点材料にはなりませんでした。


中国人から見ると、

裏切りの代名詞みたいな呂布が

日本で人気あるのが

不思議でしょうがないみたいです。


どう見ても主君の器じゃないし、

かといって人の下についたところで

丁原や董卓と同じ轍踏みそうだしで

陳寿の言う通り、やはり

滅びるしか道はなかったと思います。




正史でも個人的武勇はトップクラスで

意外と口が達者な零細経営者、呂布伝でした。

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