註二十三後、呉軍大破
註23-2.
登厲聲曰:「吾受國命,來鎮此土。昔馬文淵之在斯位,能南平百越,北滅羣狄,吾旣不能遏除凶慝,何逃寇之謂邪!吾其出命以報國,仗義以整亂,天道與順,克之必矣。」乃閉門自守,示弱不與戰,將士銜聲,寂若無人。登乘城望形勢,知其可擊,乃申令將士,宿整兵器,昧爽,開南門,引軍指賊營,步騎鈔其後。賊周章方結陣,不得還舩。登手執軍鼓,縱兵乘之,賊遂大破,皆棄舩迸走。登乘勝追奔,斬虜以萬數。賊忿喪軍,尋復大興兵向登。登以兵不敵,使功曹陳矯求救於太祖。登密去城十里治軍營處所,令多取柴薪,兩束一聚,相去十步,從橫成行,令夜俱起火,火然其聚。城上稱慶,若大軍到。賊望火驚潰,登勒兵追奔,斬首萬級。遷登為東城太守。廣陵吏民佩其恩德,共拔郡隨登,老弱繈負而追之。登曉語令還,曰:「太守在卿郡,頻致吳寇,幸而克濟。諸卿何患無令君乎?」孫權遂跨有江外。太祖每臨大江而歎,恨不早用陳元龍計,而令封豕養其爪牙。文帝追美登功,拜登息肅為郎中。
(訳)
陳登は声を荒げて言った。
「吾は国家の命を受けて
この地を鎮撫に来たのだぞ!!
むかし、馬文淵(馬超の先祖)は
吾と同じ位(伏波将軍)にありて、
よく南方の百越を平らげ、
北方の諸蛮族を滅ぼしたのだ。
吾は凶賊を退治できていないのに
どうして寇から逃げようというのか!!
吾は命を差し出して国家に報恩し
正義に従って動乱を鎮めるのだ。
天道は正義に味方するのだから
必ず勝利できる!!!!」
そこで、城門を閉ざして自ら守り
弱兵の振りをして戦おうとせず、
将士は声を潜めたため、城内は
無人の如くに静かになった。
陳登は城壁に乗って
形勢を望見しており、
攻撃するべき機会だと判断した。
そこで将士に命じて
夜間に兵器を整えさせ
明け方頃に南側の門を開いて
軍を率いて賊の軍営に至らせ
歩兵・騎兵に背後から攻撃させた。
賊はあまねく混乱して急いで陣を結び
船に戻る事ができなかった。
陳登は手ずから軍鼓を執って
これに乗じて兵を放った。
賊はかくて大破され、皆船を捨てて併走した。
陳登は勝ちに乗じて追走し、
数万に及ぶ敵を斬った。
賊は軍勢を喪った事に憤って
続けて再度大挙して陳登に向かってきた。
陳登は兵力では敵わないと判断して
功曹の陳矯を遣わして
太祖に救援を求めさせた。
陳登は密かに城から去る事
十里の諸処に軍営を治めて
命じて柴や薪を沢山取って来させて
二束を一聚として、それぞれ
十歩ずつ離して縦横に列を作らせ
夜に一斉に着火させると、火は聚を燃やした。
城の上では慶賀を称えて
大軍が到ったかの若くであった。
族は火を見ると驚いて潰走し、
陳登は兵を率いて追撃して
自ら一万の首級を挙げた。
陳登は東城太守に遷った。
広陵の官民はその恩徳を慕って
共に軍を抜けて彼に従い
老弱の者を紐で背負ってこれを追った。
陳登は彼らに諭すように語り
帰るよう命じて述べた。
「私は君たちの郡に赴任していた時
頻繁に呉の攻撃を招いてしまったが、
幸いにも勝利を成し遂げられた。
君たちはどうして
令君がおらぬと心配するのかね」
孫権はこうして長江の外部まで
跨って領有することになった。
太祖は大江の臨むたびに嘆いて、
もっと早くに陳元龍の計を用いず
豕を封じてその爪牙を
養わせてしまったことを後悔した。
文帝は陳登の功績を思慕して賛美し
陳登の子の陳粛を郎中にした。
(註釈)
劉備がべた褒めするだけあって
陳登はハンパじゃないですね。
三國志11だと
統率 79
武力 64
知力 81
政治 80
魅力 61
という能力でした。
これ、魅力は過小評価じゃない?
「陳登は傲慢」という評判が
都で立てられてたという記述もあるので、
でも、それ差っ引いても
知力は80後半
魅力70台ありそうですけどね。
色眼鏡で見すぎかな?
25歳で孝廉に推挙されて
陶謙のもとで典農校尉、
どういう作物が地質に合ってるか調査して
水路を通して耕地面積を増やし
しっかり期待に応えました。
海賊のようなアナーキストも
自分から陳登に帰順してきたり、
広陵の人々が慕って付いて来たり
人望と実績が伝わってる感じがします。
呉の軍勢を2回に渡って破ってますが、
「孫策が派遣した軍勢」とあるので
孫策本人が兵を率いてない
可能性も高いかもです。
だとすると呂範とかですかね。
陳登手ずから1万人殺してるとか
ちょっと誇張しすぎじゃないのかな
と思われる箇所もあるので、
数字は鵜呑みにしない方が良さげです。
薪や柴を束ねてを十歩ずつ
縦横に並べて着火させる場面は
通路に爆弾並べて誘爆させてく
ボンバーマンを思い出しました。
馬援は光武帝の功臣で
この時の陳登と同じく、
伏波将軍の位にあったときに
60過ぎの老人だったにも関わらず
武陵まで蛮族の討伐に向かい、
ベトナムまで乱の鎮圧に出向いた事もある、
矍鑠の語源にもなった
元気なおじいちゃんです。
馬援が戦ったベトナムの英雄、
徴測・徴弐姉妹については
河内はろんさんにお尋ねください(おい
陳登の生年は不明ですが、
夏侯惇が204年に
伏波将軍に任命されているので、
恐らく陳登が亡くなったのは
それ以前だと思われます。
享年39で、
194年に亡くなる陶謙から
25歳以降に官位貰ってるので
162〜166年くらいに
生まれたのかなと推測されます。