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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第七、呂布伝
129/603

註二十三前、多勢に無勢

註23-1.

先賢行狀曰:登忠亮高爽,沈深有大略,少有扶世濟民之志。博覽載籍,雅有文藝,舊典文章,莫不貫綜。年二十五,舉孝廉,除東陽長,養耆育孤,視民如傷。是時世荒民饑,州牧陶謙表登為典農校尉,乃巡土田之宜,盡鑿溉之利,秔稻豐積。奉使到許,太祖以登為廣陵太守,令陰合衆以圖呂布。登在廣陵,明審賞罰,威信宣布。海賊薛州之羣萬有餘戶,束手歸命。未及期年,功化以就,百姓畏而愛之。登曰:「此可用矣。」太祖到下邳,登率郡兵為軍先驅。時登諸弟在下邳城中,布乃質執登三弟,欲求和同。登執意不撓,進圍日急。布刺姦張弘,懼於後累,夜將登三弟出就登。布旣伏誅,登以功加拜伏波將軍,甚得江、淮間歡心,於是有吞滅江南之志。孫策遣軍攻登於匡琦城。賊初到,旌甲覆水,羣下咸以今賊衆十倍於郡兵,恐不能抗,可引軍避之,與其空城。水人居陸,不能乆處,必尋引去。


(訳)

先賢行状にいう、

陳登は忠良かつ高邁、爽やかであり

沈着で思慮深く、大略を有して

若い頃から世をたす

民衆を救済する意思を持っていた。


広く書物を読み、文芸に通暁して

古典文書を蒐集し、

貫綜かんそう(完読?)せぬものはなかった。


二十五歳のとき孝廉に推挙され、

東陽の長に任命された。

老人を養い孤児を育み

民を自分の傷のように労った。


この時、世が荒廃して民は飢えており

州牧の陶謙とうけんは上表して

陳登を典農校尉に任じ、

かくて彼に土田の適正を巡視させ、

開墾して灌漑の利益を尽くさせ

稲穂は豊かに実り、蓄積された。


(呂布の)使者として許都へ到ると

太祖は陳登を広陵太守に任じて

秘密裏に軍勢を糾合させて

呂布へ対処する事を命じた。


陳登は広陵にありて

賞罰を明確にして沙汰を行い

威信を広く行き渡らせた。

(そのため)海賊の薛州せっしゅうの一万余口が

自ら手を縛って帰順してきた。


(帰順してから)一年に及ぼうとする前に

教化は成し遂げられ、

百姓は畏まりつつも彼等を愛した。


陳登は言った。


「彼らに働いてもらうべきであろうな」


太祖が下邳に至ると、

陳登は郡の兵士を取り纏めて

軍の先鋒となった。


この時、陳登の諸弟は下邳の城中におり、

呂布はそこで陳登の三人の弟を人質に取り

(陳登に)和同するように要求してきた。


陳登の意思はたわまず、

進軍して日に日に激しく呂布を包囲した。


呂布の刺姦しかん張弘ちょうこうは後難を恐れ

夜に陳登の三人の弟を引き連れて脱出し

陳登のもとまで赴いた。


呂布が誅殺された後、

陳登は功を加えられて伏波将軍に拝され

甚だ江水・淮水の人々の歓心を得た。


これらの理由から、陳登は

江南を併呑せんとの志を持つようになった。


孫策が軍を派遣し

匡琦きょうき城に於いて陳登を攻撃してきた。


賊(孫策)が到った当初、

その旗と鎧は水上を覆い尽くしており

群臣らはみな、今賊の軍勢は郡兵の十倍、

恐らく抵抗することは不可能であり

これを避けて軍を撤退させ、

空になった城を明け渡すべきで、

水人が陸におれば、長く拠ることは出来ず

必ずや引き去るだろう、と主張した。




(註釈)

ここで切ります。

10倍の軍勢を擁する孫策を

陳登は果たして退けられるのか!???

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