十五、呂布の最期
三国志15.
布雖驍猛,然無謀而多猜忌,不能制御其黨,但信諸將。諸將各異意自疑,故每戰多敗。太祖塹圍之三月,上下離心,其將侯成、宋憲、魏續縛陳宮,將其衆降。布與其麾下登白門樓。兵圍急,乃下降。遂生縛布,布曰:「縛太急,小緩之。」太祖曰:「縛虎不得不急也。」布請曰:「明公所患不過於布,今已服矣,天下不足憂。明公將步,令布將騎,則天下不足定也。」太祖有疑色。劉備進曰:「明公不見布之事丁建陽及董太師乎!」太祖頷之。布因指備曰:「是兒最叵信者。」於是縊殺布。布與宮、順等皆梟首送許,然後葬之。太祖之禽宮也,問宮欲活老母及女不?宮對曰:「宮聞孝治天下者不絕人之親,仁施四海者不乏人之祀,老母在公,不在宮也。」太祖召養其母終其身,嫁其女。
(訳)
呂布は勇猛といえど
無謀で、猜疑する事が多く
身内の者を制御する事ができず
ただ、諸将のみを信頼していた。
諸将は各々意を違えて
自ずから疑心暗鬼になり、
故に戦うたび敗れる事が多かった。
太祖が塹壕を掘って三ヶ月囲むと
上下の心は離れ、呂布の将の
侯成、宋憲、魏続は、陳宮を捕縛して
軍勢を率いて曹操に降伏した。
呂布とその麾下は白門楼に登った。
攻囲が激しくなると、
そこで呂布らは楼を下りて降伏した。
かくて呂布は生け捕りにされ、
彼は言った。
「縄がきつすぎる。もう少し緩めてくれ」
太祖は言った。
「虎を縛るのに、
きつくしないわけにいくまい」
呂布は太祖に請いて述べた。
「明公が煩わしく思っておられたのは
私だけに過ぎぬでしょう。
今はもうこうして降服しているのですから
天下に憂いに足ることはございますまい。
明公が歩兵を率いて、
私に騎兵の統率をお命じくだされば
天下を平定するのは容易です」
太祖は(呂布を殺す事に)
躊躇いの色を見せた。
劉備はそこで進言した。
「明公は、呂布が
丁健陽(丁原)および、董太師(董卓)に
仕えていたのを
ご覧にならなかったのですか!!」
呂布は劉備を指差して言った。
「この餓鬼こそが
最も信用ならない奴だ!!」
こうして呂布は縊り殺された。
呂布とともに陳宮、高順らも晒し首となり
許都に送られ、然るのち埋葬された。
太祖は陳宮を生け捕りにした際、
彼の老母および妻を活かしたいかと問うた。
陳宮は答えて言った。
「私は孝によって天下を治める者は
人の親を絶やさず
四海に仁徳を施す者は、人の祭祀を
途絶えさせないと聞いている。
老母の命は公の手中にあり、私にはない」
太祖は陳宮の母親を召し寄せて
終身に渡って養い、
彼の娘を嫁がせてやった。
(註釈)
劉備を「兒」呼ばわりしたり
「弟」と呼んでいたので、
呂布はやっぱ劉備より年長なんですね。
192年に亡くなった董卓が
呂布の父親くらいの年代として、
当時董卓の母親は90歳くらい
だったそうです。
なら董卓は呂布にやられた時
60代くらいだったのかなと思われます。
劉備は当時32歳、
とすると呂布は当時
33〜40歳くらいですかね。
下邳の戦いは董卓の死から
6年後なので、呂布の年齢は
だいたい40代くらいと推測されます。
ドラマ、「三国志 three kingdoms」では
こーゆー感じのシーンになってます。
呂布
「曹操、私と組んで
天下を取ると言ってたよな?」
曹操
「今そなたは縛られておるではないか。
それでどうやって
天下を取るんだ?あ??」
呂布
「りゅ、劉備、なんとか言ってくれ。
私の助命を、曹操にお願いしてくれ」
劉備
「………………」
呂布
「袁術に攻められた時だ、
私は、戟を射て停戦してやった。
その時の恩を忘れたのか?」
劉備
「…………
あの時の御恩は、一生忘れません。
では曹操どの、お願いがございます」
曹操
「何かな?何なりと申せ」
劉備
「曹操どの、
呂布には3人の父がおりました。
1人目は丁原、2人目は董卓、
3人目が王允です。
このたび、曹操どのには
呂布の4人目の父親に
なっていただきたいと思うのですが……」
曹操
「はっはっはっはっは!!!!
だってさwwww
呂布の父になった者は
ろくな死に方をしておらんな?
んー?へへへへへへw」
(スリキンの曹操の
人を小馬鹿にした笑い方が好きw)
呂布
「大耳の賊めーーーーー!!!!
恩を忘れたのかーーーー!!!!」
劉備
「そなたが恩義を語るのか?
徐州で私を裏切っておきながら……」
・呂布→劉備への恩義
①兗州で曹操にやられた時匿ってくれた
・呂布→劉備への裏切り
①下邳を襲撃して奪い取った
②小沛で兵を集めていた劉備への攻撃
・劉備→呂布への恩
①袁術に攻められた時仲裁してくれた
・劉備→呂布への裏切り
①馬を買う金を奪った(英雄記)
②曹操に呂布を殺すよう進言した
うーーーーーーん。
いいとこ貸し借り0ですね。
基本劉備は自分から
呂布を裏切る真似はしてません。
呂布は戟を射る
パフォーマンスめいた行動で
劉備を救ったことはあるけれど、
その時の劉備のピンチ自体がそもそも
呂布の支離滅裂な行動が招いたもので。
劉備は呂布を匿ってくれた恩人なのだから
袁術の誘いを蹴って、劉備を
助けてあげるべきだったと思います。
呂布は人生の最後に、劉備のことを
「一番信用できないヤツ」と罵ってますが
恩を仇で返したのは、やはり呂布の方です。
お前が言うな、ってヤツですね。
ペテン師として比較しても
曹操を欺いた劉備のが、一枚上手かなぁ。
続いて後漢書。
後漢書は、この記述が最後です。
「呂布編」と「陳宮編」で分けます。
17-1.
曹操塹圍之,壅沂、泗以灌其城,三月,上下離心。其將侯成使客牧其名馬,而客策之以叛。成追客得馬,諸將合禮以賀成。成分酒肉,先入詣布而言曰:「蒙將軍威靈,得所亡馬,諸將齊賀,未敢嘗也,故先以奉貢。」布怒曰:「布禁酒而卿等醞釀,為欲因酒共謀布邪?」成忿懼,乃與諸將共執陳宮、高順,率其眾降。布與麾下登白門樓。兵圍之急,令左右取其首詣操。左右不忍,乃下降。布見操曰:「今日已往,天下定矣。」操曰:「何以言之?」布曰:「明公之所患不過於布,今已服矣。令布將騎,明公將步,天下不足定也。」顧謂劉備曰:「玄德,卿為坐上客,我為降虜,繩縛我急,獨不可一言邪?」操笑曰:「縛虎不得不急。」乃命緩布縛。劉備曰:「不可。明公不見呂布事丁建陽、董太師乎?」操頷之。布目備曰:「大耳兒最叵信!」
(訳)
曹操は塹壕を掘って囲み、
沂水、泗水を堰き止めて
下邳の城を水攻めにした。
三ヶ月経ち、上下の心は離れた。
呂布の将軍の侯成は
食客に名馬を牧畜させていたが
その食客が馬に鞭打って叛いた。
侯成は追いかけて馬を取り返し、
諸将は合わせて
贈り物をやって彼を祝った。
侯成は酒肉を分け
先に入室して呂布を詣でて述べた。
「将軍の威霊を蒙りまして、
奪われた馬を取り返すことができました。
諸将が祝賀の用意を整えてくれまして、
まだ(酒と肉を)味わっておりませんが
まず将軍に献上致そうと思いまして」
呂布は怒って言った。
「俺は酒を禁じておったのに
お前たちは酒を醸すのか!!
酒に因って共謀して、
俺を殺そうとしているのだろう!?」
侯成は怒りと怖れを抱き、
そこで諸将とともに陳宮と高順を捕えて
その手勢を率いて降伏した。
呂布は麾下とともに白門楼に登った。
曹操の攻囲が激しくなると
呂布は左右の者に、自分の首を取って
曹操を詣でるように命じた。
左右の物は(呂布を殺すに)忍びなく
そこで楼を下りて降伏した。
呂布は曹操に見えて述べた。
「今日より後、
天下は平定されたも同然ですな」
曹操は言った。
「何を以てそう言うのかね?」
呂布は言った。
「明公が煩わしく思っておられたのは
私だけに過ぎぬでしょう。
今はもうこうして降服しているのですから
天下に憂いに足ることはございますまい。
明公が歩兵を率いて、
私に騎兵の統率をお命じくだされば
天下を平定するのは容易です」
呂布は劉備を顧みて言った。
「玄徳よ、君は上客の席に座り
私は降りて捕虜となってしまった。
縄がきつく私を縛り上げているのだ、
どうして一言言ってくれないのだ?」
曹操は笑って言った。
「虎を縛るのに
きつくしないわけにいくまい」
そこで、呂布の縄を
緩めてやるように命じたが
劉備が言った。
「いけません。
明公は、呂布が丁健陽と
董太師に仕えてきたのを
ご覧にならなかったのですか?」
曹操は劉備の言葉に頷いた。
呂布は劉備を見て言った。
「この大耳兒こそが
最も信用ならないのだ!!」
(註釈)
呂布の捨てゼリフが
三国志だと「この小僧が最も信じ叵い」
後漢書だと「大耳小僧が最も信じ叵い」です。
三国志、先主伝で
「劉備は自分の耳を見ることができた」
との記述があり、お釈迦様のような
かなりの福耳だったぽいのです。
演義でも確か、呂布は
劉備を大耳云々言ってました。
また、後漢書では、
呂布が麾下の側近に
「俺の首を持って曹操に降れ」
命令してるんですね。
これはカッコいいです。
荀攸伝によると、
呂布が下邳に立て籠もって粘ったために
曹操の兵は疲れ切ってしまっていて
曹操も一旦退却を考えていたようですが、
荀攸と郭嘉が反対して、
下邳を水攻めにする案を出したようです。
呂布が滅んだあとは、
劉備が叛逆して小沛に駐屯し
関羽に下邳の守備を任せてますが、
曹操軍にしてみれば、一回落としてる
下邳を攻めるのは容易だったと思われます。
後漢書、陳宮編です。
後漢書17-2.
操謂陳宮曰:「公臺平生自謂智有餘,今意何如?」宮指布曰:「是子不用宮言,以至於此。若見從,未可量也。」操又曰:「柰卿老母何?」宮曰:「老母在公,不在宮也。夫以孝理天下者,不害人之親。」操復曰:「柰卿妻子何?」宮曰:「宮聞霸王之主,不絕人之祀。」固請就刑,遂出不顧,操為之泣涕。布及宮、順皆縊殺之,傳首許市。
(訳)
曹操は陳宮に述べた。
「公台よ。君はいつも、
私には有り余る智謀があると
自分でそう言っておったな。
今、どのように考えておるのかね?」
陳宮は呂布を指して言った。
「呂布《この人》が私の策を用いないから、
このような事態に陥ったのだ。
もし私の意見に従っていれば、
とは、考えるべきではなかろう」
曹操は一方でこうも言った。
「君には年老いた母親がおろう、
母親の事はどうするのかね?」
陳宮は言った。
「老母の生死は、
公の手中にあり、私にはない。
そもそも孝を以て天下を理める者は
人の親を害したりはしない」
曹操はこうも述べた。
「君の妻子はどうするのだ?」
陳宮は言った。
「私は、覇王となる主は
人の祭祀を絶やさぬと聞いている」
陳宮は(自らの)処刑を固く請い、
かくて、曹操の方を顧みずに出て行った。
曹操は彼のために涕泣した。
呂布及び、陳宮・高順は
皆縊り殺され、首は許市に送られた。
(註釈)
曹操が涙を……
曹操は陳宮を生かしたかったんでしょうが
陳宮の意思は固く、どうしても
曹操に降ろうとしませんでした。
三国志では、曹操が
陳宮の家族の面倒を見たとありましたが
後漢書に当該記述はありません。
「三国志 three kingdoms」は、
呂布と陳宮の死を以て
第1部を締めくくっていますが
ここはとても印象的なシーンでした。