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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第七、呂布伝
114/603

十三、蹴散らせ鶏軍団

三国志13.

術怒,與韓暹、楊奉等連勢,遣大將張勳攻布。布謂珪曰:「今致術軍,卿之由也,為之柰何?」珪曰:「暹、奉與術,卒合之軍耳,策謀不素定,不能相維持,子登策之,比之連雞,勢不俱棲,可解離也。」布用珪策,遣人說暹、奉,使與己并力共擊術軍,軍資所有,悉許暹、奉。於是暹、奉從之,勳大破敗。



(訳)

袁術は怒り、

韓暹かんせん楊奉ようほうらとともに軍勢を連ね

大将の張勲を派遣して呂布を攻撃した。


呂布は陳珪に言った。


「今、袁術の軍勢が到ったのは

お前のせいだぞ、どう対処するんだ?」


陳珪は述べた。


「韓暹、楊奉と袁術はともに

急造の連合軍に過ぎません。

策謀は素より定まっておらず

互いに(協力を)維持できますまい。


子の登が立てた策では

奴らを連れ立ったニワトリと比較しており、

勢いを共にして棲むことはできず、

解離させられるとの事です」


呂布は陳珪の策を用いて

人を遣って韓暹、楊奉に

私(呂布)と力を合わせて

ともに袁術を討とう、と説得させ

所有していた軍資を悉く

韓暹、楊奉へ提供した。


こうして韓暹、楊奉は

呂布に従い、張勲は大破され敗れた。



(註釈)

韓暹かんせん楊奉ようほうはもともと

河東で「白波はくは賊」と呼ばれた黄巾の残党です。


楊奉は初め李傕に仕えたのですが

あんまりにその治世が酷かったため

195年頃に李傕を暗殺しようとします。


が、失敗してしまい

献帝を連れて洛陽へ逃げました。


もと同僚の韓暹と合流して

李傕と郭汜の追撃をどうにか振り切り、

韓暹は大将軍、楊奉は車騎将軍と

超高いポストに就きます、が

やっぱり調子に乗ってしまったため

結局曹操の手で洛陽から追い出され

袁術を頼って落ち延びたのでした。


この場面では、袁術と連合を組んで

徐州を攻めてますが、

陳珪・陳登の立てた策で呂布に寝返りました。


陳登は、兵力で勝る袁術たちのことを

「ニワトリの群れ」と表現するなど

余裕綽々すぎて勝てる気がしません。



この時の大敗で、

袁術の勢力は一挙に衰えます。


続いて後漢書です。

三国志より情報増えてます。



後漢書14.

袁術怒布殺韓胤,遣其大將張勳、橋蕤等與韓暹、楊奉連埶,步騎數萬,七道攻布。布時兵有三千,馬四百匹,懼其不敵,謂陳珪曰:「今致術軍,卿之由也,為之柰何?」珪曰;「暹、奉與術,卒合之師耳。謀無素定,不能相維。子登策之,比於連雞,埶不俱棲,立可離也。」布用珪策,與暹、奉書曰:「二將軍親拔大駕,而布手殺董卓,俱立功名,當垂竹帛。今袁術造逆,宜共誅討,柰何與賊還來伐布?可因今者同力破術,為國除害,建功天下,此時不可失也。」又許破術兵,悉以軍資與之。暹、奉大喜,遂共擊勳等於下邳,大破之,生禽橋蕤,餘眾潰走,其所殺傷、墯水死者殆盡。


(訳)

袁術は呂布が韓胤を殺めた事に怒り、

大将の張勲、橋蕤きょうずいらとともに

韓暹、楊奉らと連合を取り付けて

歩兵騎兵数万を率いて

七道から呂布を攻撃させた。


呂布にはこの時三千の兵と

馬四百匹が有ったが、

とても敵わないと怖れて、

陳珪に言った。


「今、袁術の軍勢が到ったのは

お前のせいだぞ、どう対処するんだ?」


陳珪は述べた。


「韓暹、楊奉と袁術はともに

急造の連合軍に過ぎません。

策謀は素より定まっておらず

互いに(協力を)維持できますまい。


子の登が立てた策では

奴らを連れ立った鶏と比較しており、

勢いを共にして棲むことはできず、

立ち所に離散させられるとの事です」


呂布は陳珪の策を用いて

韓暹、楊奉に書状を奉じて述べた。


「二将軍は大駕を自ら拔し、

私は手ずから董卓を殺し、

共に功名を竹帛ちくはくに垂るに

相当する手柄を立てております。


今袁術は王朝に造反し、共に誅すべきで

何故賊とともに還り来たりて

私を伐とうとなさるのですか?


今は同じ志を持つ者が力を合わせ

袁術を破って国家の害悪を除き

天下に功を立てるべきです。

この機を逃してはなりません」


また、袁術の兵を破れば

その軍資を全て彼等に

与える事を約束した。


韓暹、楊奉は大喜びして

かくて呂布とともに

下邳に於いて張勲を攻撃し

これを大破し、橋蕤を生け捕りにした。


残兵は潰走し、殺傷され

水没して死ぬ者が殆ど全てだった。





(註釈)

このページは全て自力で訳しました……………

ところどころ自信のない箇所があります。



しかし、久々に三国志と後漢書で

内容がかなり違います。


袁術の配下の武将で出動したの、

三国志では張勲ちょうくんだけでしたが

後漢書では橋蕤きょうずいが追加されてます。


また、


・対張燕戦で突撃した回数

・張邈の擁する群衆の規模

・袁術の起こした連合軍の兵数

・対する呂布の兵数


など、後漢書は数字が

いちいち具体的ですよね。


開き直って適当に書いてるのか、

新しい史料が見つかったのか……



三国志と違い、後漢書にはハッキリと

「曹操が韓胤を殺した」とありました。


後漢書の呂布は、使者を殺すほどに

袁術を怨んでいるとは

やはり考えにくいんです。


袁術は

「呂布が韓胤を殺した事」に怒ってますが

曹操が袁術と呂布を潰し合わせるため

韓胤を手にかけたかのように

書かれてる気がします。


後漢書は三国志と違って

曹操の悪行を隠す必要はないので

陳寿と范曄の、立場の違いが

記述に表れてるんでしょうか。

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