十、袁術と破談!
三国志10.
術遣使韓胤以僭號議告布,并求迎婦。沛相陳珪恐術、布成婚,則徐、揚合從,將為國難,於是往說布曰;「曹公奉迎天子,輔讚國政,威靈命世,將征四海,將軍宜與恊同策謀,圖太山之安。今與術結婚,受天下不義之名,必有累卵之危。」布亦怨術初不己受也,女已在塗,追還絕婚,械送韓胤,梟首許市。珪欲使子登詣太祖,布不肯遣。會使者至,拜布左將軍。布大喜,即聽登往,并令奉章謝恩。
(訳)
袁術は韓胤を使者に遣って
帝位を僭称した事を呂布に告げさせ
併せて夫人(呂布の娘)を迎える事を求めた。
沛の相陳珪は袁術と呂布が婚姻を成し、
則ち徐州と揚州が合従して
国難となる事を恐れ、
そこで呂布の元に出向き、彼を説いた。
「曹公は天子を奉迎して国政を輔弼し、
威霊は世に名高く、
四海を征伐しようとしており、
将軍は曹公とともに協同して策謀を練り
泰山の如き安寧を図るべきです。
今袁術と婚儀を結べば
天下に不義理の名を受け、
必ずや累卵の危機に陥るでしょう」
呂布もまた、袁術が初めは
自身を受け入れなかった事を怨んでおり、
娘は既に(袁術への輿入れの)途上にあったが
追って連れ戻し、婚儀は取り止めて
韓胤に枷をつけて送り
許の市場に於いて梟首(晒し首)にした。
陳珪は子の陳登を使いに遣って
曹公を詣でようとしたが
呂布は派遣を肯んじなかった。
ちょうど(曹操の)使者が到着し
呂布を左将軍に任命した。
呂布は大喜びして、即刻
陳登が(使者として)赴くことを許可し
併せて謝意を奉じさせた。
後漢書11.
術遣韓胤以僭號事告布,因求迎婦,布遣女隨之。沛相陳珪恐術報布成姻,則徐楊合從,為難未已。於是往說布曰:「曹公奉迎天子,輔贊國政,將軍宜與協同策謀,共存大計。今與袁術結姻,必受不義之名,將有累卵之危矣。」布亦素怨術,而女已在塗,乃追還絕婚,執胤送許,曹操殺之。陳珪欲使子登詣曹操,布固不許,會使至,拜布為左將軍,布大喜,即聽登行,并令奉章謝恩。
(訳)
袁術は韓胤を遣って
帝位を僭称した事を呂布に告げさせ、
同時に夫人を迎える事を求め
呂布は娘を遣ってこれに従わせた。
沛の相陳珪は、袁術が呂布に報い
姻戚となって、則ち徐州と揚州が合従して
兵難が止まぬ事を恐れ
そこで呂布の元に出向き、彼を説いた。
「曹公は天子を奉迎して国政を輔弼しており
将軍はかの方と協同して策謀を練り
(国家の)大計を共存するべきです。
今袁術と婚儀を結べば
必ずや不義理の名を受け、
累卵の危機に陥るでしょう」
呂布もまた素より袁術を怨んでおり、
已に娘は途上にあったが
追って連れ戻し、婚儀は取り止めて
韓胤を捕えて許へ送った。
曹操は韓胤を殺した。
陳珪は子の陳登を使いに遣って
曹操を詣でようとしたが
呂布はどうしても許さなかった。
ちょうど(曹操の)使者が到着し
呂布を左将軍に任命した。
呂布は大喜びして、即刻
陳登が(使者として)赴くことを許可し
併せて謝意を奉じさせた。
(註釈)
呂布と袁術が結びそうになったところで
小沛の陳珪が「待った!」をかけました。
下邳の陳瑀は陳珪の従弟で、
袁術と袂を分かっています。
陳珪と袁術は昔馴染みでしたが
同族の陳瑀から袁術の異心を聞いたのか
徐州の陳家は袁術を拒むスタンスで
一貫しています。
袁術は陳珪の子を人質に取ってでも
彼を味方に引き入れようとしますが
それでも陳珪は首をタテに振りませんでした。
また、孫策伝の註では
陳瑀・呂布・孫策に袁術討伐の
詔勅が下された事になってます。
徐州は袁術派と反袁術派で
けっこう揺れていますね。
三国志は
「袁術が初めは受け入れてくれなかったから」
後漢書は
「もとより袁術が嫌いだったから」
と、呂布が袁術を拒んだ理由が
ちょっと違っています。
ここで呂布が袁術を拒む場面があるから
陳寿は矛盾しないように、
序盤で二人の仲が拗れる描写を入れた?
対して、
范曄の袁術は初め呂布に優しかった。
これで呂布が「素より怨んでた」
っていうのは、ちょっとヘンかも。
後漢書の呂布には
袁術を恨む理由が無いはずで、
これはむしろ、あとあと二人が
結ぶ時に建てておくフラグですよね。
ここの描写は、三国志の方が腑に落ちます。
呂布の娘は、正史では悲しい事に
政略婚の道具でしかないのですが、
コーエー(テクモ)の歴史ゲームでは
「呂玲綺」という名で
父親譲りの武勇を誇る女武者……
という具合にアレンジされています。
蜀が勝っちゃう架空戦記
「反三国志」にも
馬超の妹の「馬雲騄」とか出てきます。
巴御前とかジャンヌとか則天武后とか
立花誾千代とか井伊直虎とか
女傑にはやはりロマンが詰まっています。
三國志9では、呂布と袁術が結託し、
袁術が亡くなったのちに
呂布が跡を継いで皇帝になる
「皇帝呂布」という
変わり種のIFシナリオがありました。