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淡々三国志  作者: ンバ
蜀書第六、関羽伝
11/603

四、劉備の飛躍

4.

從先主就劉表。表卒、曹公定荊州、先主自樊將南渡江、別遣羽乘船數百艘會江陵。曹公追至當陽長阪、先主斜趣漢津、適與羽船相値、共至夏口。孫權遣兵佐先主拒曹公、曹公引軍退歸。先主收江南諸郡、乃封拜元勳、以羽為襄陽太守・盪寇將軍、駐江北。


(訳)

関羽は先主に従って劉表りゅうひょうに属した。

劉表が卒すると、曹公が荊州けいしゅうを平定し、

先主は樊から南へ渡江しようと考え

関羽を別働隊に遣って数百の船を率いさせ

江陵こうりょうで合流するよう命じた。


曹公の追撃が当陽とうよう長阪ちょうはんに至ると

先主は道を逸れて漢津かんしんに到達し

ちょうど関羽の船と出くわしたため

ともに夏口かこうへ至った。


孫権(そんけん)が派兵して先主を救援し

追撃を防いだので、曹公は軍を退いた。


先主は江南こうなんの諸郡を平定すると

大功を挙げた者に封爵を授け

関羽を襄陽じょうよう太守、盪寇とうこう将軍に任命して

長江の北に駐屯させた。


(註釈)

一気に年代が飛んで208年、

有名な長阪ちょうはんの戦いです。


200年の白馬・延津えんしんの戦い、

そして官渡かんとの戦い、

201年の倉亭そうていの戦いで

曹操は袁紹に連勝を収めます。


袁紹は失意のまま病死し

きちんとした後継を立てなかったため

袁家でお家騒動が勃発。

そこからは目も当てられません。


207年までには袁勢力の残党は

曹操にキレイに片付けられてしまい

曹操は名実ともに中原の覇者となります。


またこの間に謀臣の郭嘉かくか

わずか38歳で亡くなっています。


一方劉備は荊州けいしゅうへ落ち延び

荊州牧の劉表りゅうひょうのもとで

束の間の平和を謳歌して(?)いました。


後継の劉禅りゅうぜんや、臥龍がりゅう諸葛亮しょかつりょうを得たのも

この頃になります。


208年に劉表が亡くなると

曹操が荊州に侵攻してきます。


劉備は劉表から新野しんやを与えられ

曹操が攻めてきた時ははんにいました。


曹操が南陽まで攻めてきたと

聞いた劉備は軍とともに逃げます。


その途中で諸葛亮が

襄陽じょうよう取って

曹操軍に対抗しよう」と

劉備に提案しましたが、

劉備はこれを信義にもとるとして拒否。


劉備に従って逃げる民衆は

100000ほどにおよび、

進軍速度が鈍化した劉備は

当陽とうようで曹操に追いつかれてしまいます。


ここは張飛と趙雲ちょううんの見せ場です。

関羽は先に別働隊として派遣され

曹軍と直接交戦してはいません。


曹操にやられて本来の逃走ルートから

逸れてしまった劉備は、

「たまたま」関羽の船団と出くわして

夏口かこうまで落ち延びました。


ここから呉主ごしゅ孫権そんけんも登場して

(一人だけ呼び捨てにされてる)

グッと三国志っぽくなってきます。


赤壁せきへきの戦いはナゾが多く

関羽伝では描写0です。


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