四、劉備の飛躍
4.
從先主就劉表。表卒、曹公定荊州、先主自樊將南渡江、別遣羽乘船數百艘會江陵。曹公追至當陽長阪、先主斜趣漢津、適與羽船相値、共至夏口。孫權遣兵佐先主拒曹公、曹公引軍退歸。先主收江南諸郡、乃封拜元勳、以羽為襄陽太守・盪寇將軍、駐江北。
(訳)
関羽は先主に従って劉表に属した。
劉表が卒すると、曹公が荊州を平定し、
先主は樊から南へ渡江しようと考え
関羽を別働隊に遣って数百の船を率いさせ
江陵で合流するよう命じた。
曹公の追撃が当陽の長阪に至ると
先主は道を逸れて漢津に到達し
ちょうど関羽の船と出くわしたため
ともに夏口へ至った。
孫権が派兵して先主を救援し
追撃を防いだので、曹公は軍を退いた。
先主は江南の諸郡を平定すると
大功を挙げた者に封爵を授け
関羽を襄陽太守、盪寇将軍に任命して
長江の北に駐屯させた。
(註釈)
一気に年代が飛んで208年、
有名な長阪の戦いです。
200年の白馬・延津の戦い、
そして官渡の戦い、
201年の倉亭の戦いで
曹操は袁紹に連勝を収めます。
袁紹は失意のまま病死し
きちんとした後継を立てなかったため
袁家でお家騒動が勃発。
そこからは目も当てられません。
207年までには袁勢力の残党は
曹操にキレイに片付けられてしまい
曹操は名実ともに中原の覇者となります。
またこの間に謀臣の郭嘉が
わずか38歳で亡くなっています。
一方劉備は荊州へ落ち延び
荊州牧の劉表のもとで
束の間の平和を謳歌して(?)いました。
後継の劉禅や、臥龍諸葛亮を得たのも
この頃になります。
208年に劉表が亡くなると
曹操が荊州に侵攻してきます。
劉備は劉表から新野を与えられ
曹操が攻めてきた時は樊にいました。
曹操が南陽まで攻めてきたと
聞いた劉備は軍とともに逃げます。
その途中で諸葛亮が
「襄陽取って
曹操軍に対抗しよう」と
劉備に提案しましたが、
劉備はこれを信義に悖るとして拒否。
劉備に従って逃げる民衆は
100000ほどにおよび、
進軍速度が鈍化した劉備は
当陽で曹操に追いつかれてしまいます。
ここは張飛と趙雲の見せ場です。
関羽は先に別働隊として派遣され
曹軍と直接交戦してはいません。
曹操にやられて本来の逃走ルートから
逸れてしまった劉備は、
「たまたま」関羽の船団と出くわして
夏口まで落ち延びました。
ここから呉主孫権も登場して
(一人だけ呼び捨てにされてる)
グッと三国志っぽくなってきます。
赤壁の戦いはナゾが多く
関羽伝では描写0です。