表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
淡々三国志  作者: ンバ
魏書第七、呂布伝
108/603

註十一前、張飛敗れる

註11-1.

英雄記曰:布水陸東下,軍到下邳西四十里。備中郎將丹楊許耽夜遣司馬章誑來詣布,言「張益德與下邳相曹豹共爭,益德殺豹,城中大亂,不相信。丹楊兵有千人屯西白城門內,聞將軍來東,大小踊躍,如復更生。將軍兵向城西門,丹楊軍便開門內將軍矣」。布遂夜進,晨到城下。天明,丹楊兵悉開門內布兵。布於門上坐,步騎放火,大破益德兵,獲備妻子軍資及部曲將吏士家口。



(訳)

英雄記にいう、

呂布は水陸から東へ下り、

軍勢は下邳の西四十里(16〜17km)に到った。


劉備の中郎将で丹楊たんよう許耽きょたん

夜に司馬の章誑しょうきょうを遣って

呂布を訪ねさせ、述べた。


「張益徳と、下邳の相の曹豹そうひょうがともに争い

益徳が曹豹を殺し、城中は大いに混乱して

互いに疑心暗鬼に陥っております。


丹楊の兵千人は城の西側の白門に駐屯し、

将軍が東へやって来られたと聞いて

大小とも喜び勇んで、再び

甦ったかのようでございます。


将軍が兵を城の西門に向けられれば

丹楊兵はたちまちに城門を開き

将軍を内に迎え入れるでありましょう」


呂布はかくて夜に進軍し、

早朝に城下に到った。


夜が明けると、丹楊兵は悉く門を開いて

呂布とその兵を内部へ受け入れた。


呂布は門の上に坐して

歩兵・騎兵は火を放ち

益徳(張飛)の兵を大破し、

劉備の妻子や、軍資及び

私兵や官吏の家族を獲えた。




(註釈)

揚州の丹楊たんよう郡は強兵のメッカで、

この地の出身の陶謙とうけん

精兵をたくさん持ってたんです。


陶謙が袁術から独立しようとしたのも、

劉備が指揮官として有能だったために

「劉備と丹楊兵がいればイケる!」

と判断したのかなぁ。


当の劉備は陶謙が死んだ後、

袁術に徐州を譲ろうとしてるんですが、


孔融や陳登ちんとう

『袁術じゃダメだって!!

玄徳さんが徐州を治めてくれ!』

と後押ししたことで、結局

袁術とは敵対関係になりました。


前のページでも触れましたが、

孔融は本当に袁術が大嫌いなんですなぁ。



荊州南陽で曹操に敗れて

揚州へ拠点を移した袁術は、

南側の接収を孫策そんさくに命じて

自身は北へ劉備を攻めました。


英雄記を見るに、劉備は

袁術と互角に戦ってたようです。

そもそも袁術自体あんまし

戦争強くないんですが……


袁術からしてみれば

劉備という、どこの馬の骨とも

わからない男が、陶謙の軍を奪って

自分に歯向かってくるので

非常に不愉快だったと思われます。


ここで「英雄記」の記述によると

劉備が本拠地の下邳かひを空けているあいだに

丹楊の許耽が内応して

呂布を招き入れたとあります。



この頃、「丹楊郡」は袁術の所領です。


袁術は、呂布に兵糧送る条件で

劉備の本拠地を襲わせる約束を取り付け


更に丹楊グループに内応させて

事前に呂布を迎える準備をさせてた、

って事になるんですかね。


西門で丹楊兵が呂布と合流する

手筈になってるとか、

用意良すぎですもん。


演義で曹操と荀彧の披露した

「駆虎呑狼の計」と大体同じ内容ですが、

正史では、この一連の流れは

袁術主導だった可能性が高いようです。


やっぱり袁術は

イメージより絶対頭いいですよ。




「張飛が曹豹とトラブルを起こして

呂布に城を取られた」


と以前に書きましたが……

これも、どうやら演義のイメージに

引き摺られてしまっていたようです。



先主(劉備)伝に

引用されている方の「英雄記」では


『曹豹は張飛を殺そうとした』


また、本文には

『曹豹が呂布を招き入れた』


とあります。


演義では、張飛が酔っ払って

トラブルを起こす場面なのですが、

むしろ張飛は曹豹のクーデターを

阻止しようと、かなり

頑張ってたんじゃないかと思います。



孔融や陳登は

劉備を徐州のトップに据える事に

何の疑いも持っていませんでしたが、

兵将は決して一枚岩でなく

劉備より袁術を推してる声が

一定数あったという事になります。


三国時代は民にとっては地獄の時代で

人口が後漢末期の5600万から

800万くらいまで激減してます。

(魏500万、呉230万、蜀90万?)


始皇帝が斃れ、陳勝ちんしょう呉広ごこうの反乱から

高祖劉邦が天下統一するまでは、7年。


王莽おうもうによって前漢が滅び、

赤眉せきびの乱が起こってから

光武帝劉秀が再統一するまで、18年。


これに対して三国時代は、

黄巾の乱から晋の統一まで

96年も戦乱が続いてしまったため

民が休まる暇が無かったんです。



190年代の徐州は特に

曹操の虐殺や飢饉があって

酷いことになってそう……


袁術は曲りなりにも超エリートですし、

ゴハンもたくさん持ってそうなので、

劉家とはいえ得体の知れない劉備より

袁術求める層が一定数いるのも理解できます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ