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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第七、呂布伝
107/603

註十、金尚

註10.

典略曰:元休名尚,京兆人也。尚與同郡韋休甫、第五文休俱著名,號為三休。尚,獻帝初為兖州刺史,東之郡,而太祖已臨兖州。尚南依袁術。術僭號,欲以尚為太尉,不敢顯言,私使人諷之,尚無屈意,術亦不敢彊也。建安初,尚逃還,為術所害。其後尚喪與太傅馬日磾喪俱至京師,天子嘉尚忠烈,為之咨嗟,詔百官弔祭,拜子瑋郎中,而日磾不與焉。



(訳)

典略にいう、

金元休は名をしょうといい、京兆の人である。


金尚は同郡の韋休甫いきゅうほ第五文休だいごぶんきゅうとともに

著名で、号して「三休」といった。


金尚は献帝の初期に兗州刺史となり、

東郡へ赴いたが、既に曹操が

兗州に君臨していたために

南方の袁術を頼った。


袁術は帝号を僭称すると、

金尚を大尉に任命しようとしたが

敢えて明言を避け、人を使って

遠回しにこれを伝えた。


金尚は意を曲げようとせず

袁術の方も敢えて強制はしなかった。


建安(196〜)の初め、

金尚は逃げ帰ろうとして

袁術に殺害された。


その後、金尚の遺体が

馬日磾ばじつていの遺体とともに

都へ至ると、天子は金尚の忠烈をよみして

彼のために咨嗟しさ(歎息)し、

詔を百官に下して弔祭させ

子の金禕きんいを郎中に任じた。


しかし、馬日磾は恩恵に与れなかった。




(註釈)

「第五文休」って面白い名前ですね。


光武帝の時代に「第五倫」という

人が出てくるんですが、彼の子孫でしょうか。

五郎丸選手的な、珍しい姓です。



馬日磾ばじつていはあざなを翁叔おうしゅくといい、

董卓が呂布に誅されたあと

軍勢を引き継いだ李傕から節を与えられ

山東方面の慰撫を命じられるのですが、

袁術に節を奪い取られ、幽閉されてしまいます。

袁術から屈辱を受けた馬日磾は

そのまま憤死してしまったとされます。


その後、帝のもとに

金尚と馬日磾の遺体が返却された際、

金尚は袁術に靡かなかったことから

恩恵に与ったのですが、


馬日磾の方は

孔子の20世の子孫である孔融こうゆうから

「袁術如きに媚びようとしやがって!」

と、猛烈な批判を浴びたために

ちゃんと弔われなかったようです。


直言居士の孔融は、

劉備とは仲よさげなのですが

のちに曹操と対立することになります。

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