七、曹操の徐州侵攻、張邈の叛逆
三国志7.
興平元年,太祖復征謙,邈弟超,與太祖將陳宮、從事中郎許汜、王楷共謀叛太祖。宮說邈曰:「今雄傑並起,天下分崩,君以千里之衆,當四戰之地,撫劒顧眄,亦足以為人豪,而反制於人,不以鄙乎!今州軍東征,其處空虛,呂布壯士,善戰無前,若權迎之,共牧兖州,觀天下形勢,俟時事之變通,此亦縱橫之一時也。」邈從之。太祖初使宮將兵留屯東郡,遂以其衆東迎布為兖州牧,據濮陽。郡縣皆應,唯鄄城、東阿、范為太祖守。太祖引軍還,與布戰於濮陽,太祖軍不利,相持百餘日。是時歲旱、蟲蝗、少穀,百姓相食,布東屯山陽。二年間,太祖乃盡復收諸城,擊破布於鉅野。布東奔劉備。
(訳)
興平元年(194)、
太祖がまた陶謙の征伐に赴くと
張邈の弟の張超が、
太祖の将の陳宮、
從事中郎の許汜・王階と
共謀して太祖に反旗を翻した。
陳宮は張邈を説いて言った。
「今の世は英雄豪傑が並び起ち、
天下は分かたれ崩壊し、
あなたは千里の群衆を率いて
四戦の地に当たっております。
(※陳留は四方から攻め易い平地)
剣を撫で周囲を顧みるだけでも
また豪人足り得ますのに
逆に他人の制御下にあることは
なんと卑しきことではございませぬか!?
今兗州(曹操)の軍は東征し
その本拠地は空虚、
呂布は壮士でよく戦い、
向かう所敵なしであります。
若し権によって彼を迎え入れ
ともに兗州を治めて
天下の形勢を観察し
時事の変通を待たれれば
これもまた縦横の一つの好機です」
張邈はこれに従った。
太祖は初め、陳宮に将兵を与えて
東郡に駐屯させていたが、かくて張邈は
その軍を東に遣って呂布を迎え入れ、
兗州牧と為して、濮陽を占拠した。
郡県は皆これに応じて、
ただ鄄城・東阿・范だけが
太祖のために守衛した。
太祖は軍を撤退させ引き返し、
呂布と濮陽に於いて戦ったが
太祖の軍は不利となり、
相対する事百余日に及んだ。
この時、旱魃と蝗害によって
穀物は少なく、百姓は互いに食らい合い、
呂布は東の山陽に駐屯した。
二年の間に、太祖は
諸城の盡くを奪い返し
鉅野に於いて呂布を撃破した。
呂布は東に奔り、劉備に身を寄せた。
(註釈)
私が張超です(ロマンシング・バカ
張邈の弟の張超は広陵太守です。
徐州と揚州の境目あたり?かな?
反董卓連合の結成時は
ヤル気ある方のグループに属してます。
彼の伝は三国志にはないものの、
その配下にいた臧洪という義士が
呂布と揃って魏書の第7巻に列伝されてます。
曹操は、父の曹嵩が
徐州の陶謙に間接的に殺された事に怒り
徐州へ侵攻して、数十万に及ぶ民衆
及び犬や鶏までも一匹残らず
惨たらしく殺したとあります。
一説によれば、
曹操は192年に青州の黄巾兵を接収して
(兵30万、民100万余)
一気に軍勢が膨れ上がったため、
父を殺されたことを口実に徐州を攻め、
手に入れた土地を利用して、兵らに
屯田をさせる計画があったとか……
あったにしてもやり過ぎですが。
この時の避難民に、
幼い諸葛亮らが混じっていたそうで、
当然曹操は多くの人から反感を買いました。
しかも徐州瑯琊って、彼の奥さんの
卞夫人の故郷でもあるのに
情け容赦がありませんや。
曹操の親友だったハズの張邈は、
・曹操のバックにいる袁紹への恐怖
・徐州で民衆を虐殺した曹操への反感
・張超や陳宮に乗せられたこと
・豪傑呂布と誼を結んでいたこと
これらの理由から、とうとう
曹操を裏切ってしまいます。
この頃の曹操は、領土が兗州だけしかなく
その兗州の大半を呂布らに取られたため
滅亡三歩手前まで追い詰められてました。
夏侯惇・荀彧・程昱らの働きかけで
鄄城・東阿・范の拠点は残ったものの
下手したらここで曹操の名前が歴史から
消えてたかもしれないってレベルです。
夏侯惇が片目を射抜かれて
隻眼になったのは、この戦においてです。
演義では更に
「この目玉は父の精、母の血である。
それを捨てられるものかぁあ!!!!」
と言ってその目玉を食べてしまい、
射抜いた将を突き殺すという
なんとも壮絶な場面となっています。
「善悪の屑」という漫画でも
主人公がこの場面を引き合いに出して
「お前さんも夏侯惇にしてやろう」つって
あとはお察しください……
曹操は2年かけて呂布を破り、
陶謙の死後、徐州の統治を継いだ劉備は
曹操に敗れた呂布を匿いますが
逆に母屋を乗っ取られます。
せっかく劉備が助けてくれたのに、
このあたりがさすが呂布という感じです。
後漢書7.
興平元年,曹操東擊陶謙,令其將武陽人陳宮屯東郡。宮因說邈曰:「今天下分崩,雄桀並起,君擁十萬之眾,當四戰之地,撫劍顧眄,亦足以為人豪,而反受制,不以鄙乎!今州軍東征,其處空虛,呂布壯士,善戰無前,迎之共據兗州,觀天下形埶,俟時事變通,此亦從橫一時也。」邈從之,遂與弟超及宮等迎布為兗州牧,據濮陽,郡縣皆應之。曹操聞而引軍擊布,累戰,相持百餘日。是時旱蝗少穀,百姓相食,布移屯山陽。二年閒,操復盡收諸城,破布於鉅野,布東奔劉備。
(訳)
興平元年(194年)
曹操は東行して陶謙を撃ち、
その武将で、武陽の人の陳宮に命じ
彼を東郡に駐屯させた。
陳宮はそこで張邈に説いて述べた。
「今、天下は分かたれ崩壊し
英雄豪傑が並び起ち、
君は十万の群衆を擁して
四戦の地に当たっています。
剣を撫で周囲を顧みるだけでも
また豪人足り得ますのに
逆に他者の掣肘を受けるとは
なんと卑しきことではございませぬか!?
今、州軍は東征し
その本拠地は空虚、
呂布は壮士でよく戦い、
向かう所敵なしであります。
彼を迎え入れ、ともに兗州を治めて
天下の趨勢を観察し
時事の変通を待たれれば
これもまた縦横の一つの好機です」
張邈はこれに従い、
弟の張超及び陳宮とともに
呂布を迎え入れ、 兗州牧と為して
濮陽を占拠し、郡県は皆応じた。
曹操は(張邈の謀反を)聞いて
軍を返して呂布を攻撃し、
戦いを累ねること百余日に及んだ。
この時、旱魃と蝗害によって穀物は少なく、
百姓は互いに食らい合い、
呂布は東の山陽に駐屯した。
二年の間に、
太祖は諸城の盡くを奪い返し
鉅野に於いて呂布を撃破した。
呂布は東に奔り、劉備に身を寄せた。
(註釈)
ほとんど内容いっしょです。
張邈が10万を擁してるのと、
陳宮が武陽の人って書かれてるくらいで。