羽化
次の相続会議が行われる頃には、もう弦太郎の死から一月近く経とうとしていた。
「ん? 望美はいないのか、今日は」
迎えに出た新一郎に、半次朗が訊いた。
「あいつ、最近ちょくちょくどこかに出かけてるんだよ」
「お父様が死んだと思って、遊び歩いてんじゃないの? 全く、これだからあの子は」
ぶつぶつ言いながらも一同は会議の席につき、しばらくぐだぐだと話し合っていた矢先に望美が帰って来た。
「何だよ望美、どこ行ってたんだ」
「おまえだって、相続人の一人なんだからな」
「今日集まることはわかってたはずでしょ。それなのに外出するなんて」
ちなみに今までの話し合いに、望美は一切参加していない。口々に責め立てる兄姉達に、望美は淡々と告げた。
「今日は、家庭裁判所へ行って来ました」
「家庭裁判所?」
「ようやく色々準備が出来ましたので……私、月ヶ瀬望美は、月ヶ瀬弦太郎の遺産相続を一切放棄いたします。その為の書類を揃えて手続きをして来ました」
相続放棄。望美の口から出た意外な言葉に、兄妹はぽかんとしていた。
「望美さんは、それでいいんですね?」
朔也の言葉に、望美はうなずいた。
「はい。……それに伴い、この家を引き払おうと思います」
「この家を出て行くってのか。親父との約束は?」
「お父様との約束は、『私が学生の間はこの家にいる』です。この三月のうちに大学は卒業しましたし、引っ越し先も勤め先も決まっています」
望美が就職先として口にしたのは、県庁所在地にある大手の法律事務所だった。そこで事務員をするのだという。
「お父様が亡くなった以上、私がここにいる理由もありません。二〜三日中に荷物をまとめて出て行きます。皆さんは私が目障りなようですので、なるべく早目に済ませますね。──では、今までお世話になりました。失礼します」
それだけ言って、望美は自分の部屋に戻って行った。取り残された兄妹達は、互いに顔を見合わせた。
「こ、これは……」
「良かったんじゃないの? 多分……」
「そうだ、望美が勝手に相続放棄したんだからな。良かったんだよ、きっと」
言い合いながら、三人は考えていた。
(多分、あの嫌がらせが効いたんだろう。しかし、誰があんな嫌がらせを?)
(少なくとも、俺・私じゃない)
(だとすると、自分以外の誰かが……?)
兄妹は、それぞれ他の二人を探る視線を巡らせた。
春の風が吹く中、望美は身の回りの物を詰め込んだスーツケースと共に、駅にいた。電車を待つ彼女に、そっと一人の男が近づいて来た。朔也だった。
「この度はお世話になりました、加賀美さん」
望美は頭を下げた。
「まだ誰も気づいてませんよ、あなたの意図には」
「そうですか。……あの人達、いつまで自分がお金持ちのつもりでいるのかしら」
望美の言葉に朔也は苦笑した。
大地主と言えど、月ヶ瀬家の羽振りが良かったのは戦時中までだ。それでも高度経済成長時代までは何とか持ちこたえていたが、バブル崩壊やリーマンショック、その後の不景気を経て、現在の内実は火の車になっていた。
それでも体面を保つ為、暮らしのグレードは落とさないし、金食い虫の息子や娘達の金銭的支援もする。そんなわけで屋敷内の骨董品や美術品は一部を除いて贋作やガラクタばかりだし、山は大部分が切り売りされ、最近は借金も嵩んでいた。例え相続しても、遺産などないに等しい。
今まで何とかなっていたのは、弦太郎の才覚に加え、望美の実務を回す能力があったからだ。最初は単に家政婦代わりとして引き取られた望美だったが、奥向きのことを一手に引き受けた結果、皮肉なことに彼女の能力は開花した。彼女は月ヶ瀬家の兄妹の中で、誰よりも有能だった。
「加賀美さんは、市長に立候補するんですか?」
「はい。このまま月ヶ瀬家が潰れてくれれば、旧態依然とした勢力は弱体化する。父の出来なかった市政の改革も出来るようになるでしょう」
月ヶ瀬家に残ったあの三人では、砂上の楼閣のような今の月ヶ瀬家を保つことは出来ないだろう。
望美のされた嫌がらせは、全て彼女の自作自演だ。それをわざと外部の者の前で行うことで、望美への同情心を誘い三兄妹への不信感を抱かせる。町の者達の間では、すっかり望美はいびり出されたことになっている。
三兄妹自体町の者には嫌われているし、月ヶ瀬家には昔のような勢力はもうなくなるだろう。
望美には母親が生前遺してくれた預金がある上、父がかけていた生命保険金もある。保険金は個人の資産とされるので、相続放棄の対象外だ。
望美はくくっていた髪をほどいた。黒髪が風になびく。眼鏡は外し、コンタクトに変えている。唇には鮮やかな色の紅を引き、春らしいパステルカラーの服を着ている。
それだけで、彼女は見違える程に美しい娘になっていた。まるで蛹が蝶に羽化したように。
「私は、これから私の人生を生きます」
「頑張って下さい」
「加賀美さんも」
望美はにこりと笑って、やって来た列車に乗り込んで行った。
彼女のこれからを祝福するように、駅の構内に植えられている桜の花が開きかけていた。