梵天組
晴太は何度も頭の中で繰り返したシミュレーションの通り、あらかじめ政子のそばへ近寄り、タイミングをみて、ここぞと振り向いた。
「北条さん、送るよ」
だが、目の前には誰もいなかった。
「うそ・・・」
彼はキョロキョロと辺りを見回した。暮れなずむ繁華街は、不景気ゆえに閑散として見通しが良かった。制服姿の高校生は嫌でも目立つ。
「どこだ・・・?」
見つけた。
五十メートル先の曲がり角に消えた白いリボンのポニーテールは、政子のものに間違いない。
晴太は走りながら、何と声をかけようかを考えた。
どこへ行くの? うーん、これはダサいな。
ちょっと時間もらえる? ナンパか。
帰る方向が一緒だよね。 待てよ、彼女がすぐに帰るとは限らない。
夜の繁華街で女の子一人は危ないからね、良かったら家まで送らせて。 よし、これだ!
妥当性に一人納得しつつ、全速力で追いかけた。
それほど急いでいるように見えないが、思いのほか政子の足は速い。晴太は見失うまいと必死で走り続け、やっと追いついたと思ったら、白いリボンは建物の中へ消えてしまった。
割と新しい五階建てのビルだ。入口脇には、大きな一枚板に墨書された「梵天組」の文字。政子の入って行ったビルは、泣く子も黙る武闘派ヤクザの事務所だった。
「うそだろ・・・・・」
ゴクリ、と喉が鳴った。
「でも・・・でも、行かなきゃ」
彼女はきっと、ここがどういう場所か知らずに入って行ったのだ。何かあってからでは遅い。絶対に放ってはおけない。
晴太は震える足を無理にでも動かし、前へと進んだ。
大きなガラス扉をはさんで、二人の男が仁王立ちしていた。左の男はスキンヘッドに入れ墨、右は角刈りに金縁のサングラスだ。そろって大柄、頑健、見るからに強面である。
晴太は下を向いたまま、ギクシャクと歩を進めた。
「あの、ちょっと失礼します」
そろりとガラス扉を押し、中へ入った。
おや?
注意されなかった。
振り向いて、そっと様子を窺ってみると、二人とも宙を睨んだまま微動だにしない。
「どゆこと?」
ともかく助かった。これで先へ進める。
前を向くと、突き当りのエレベーター前に政子がいた。一階はフロア全体がロビーのようだ。
「北条さん!」
声に振り向いた政子は、驚いたように口を開けた。
「・・・明日葉くん。こんなところで何してるの?」
「こっちのセリフだよ。どうしてここへ?」
「知り合いを見かけたの。追いかけたら、このビルへ入ったのよ」
「ここ、ヤクザの事務所だよ」
このひと言で、政子は回れ右をして、一緒にビルを出て行くものだと思っていた。ところが、そうではなかった。
「ヤクザ・・・ああ、そう。それはちょうど良かった」
彼女は嬉しそうに、胸の前で手を合わせた。
いったい何を言っているのだ。
「良くない。危ないよ。分かってる? 何かあってから後悔しても遅い。一緒に帰ろう」
晴太は連れ帰ろうと政子の手をつかみ、足を踏み出した。
「おおっと・・・」
晴太は仰向けに転ぶ寸前で、なんとかこらえた。まるで銅像のように重い。
驚いて振り向いたが、政子に変わりはなかった。身長は晴太より低く、制服から伸びた手足は細い。メリハリがあるにしても、少なければ四十キロ少々、多くても五十キロは超えないだろう。
どういうこと?
唖然とする間に、エレベーターのドアが開いた。中は空だ。
「話を聞きたいから行ってくるわ。反社会勢力の組織を知る機会も、そうそうないでしょう。調査も大詰めだし、これも後学のためよ」
政子は晴太の手を振り切って、エレベーターへ乗り込んだ。説得に応じる気配はなかった。
「わたしのことは、気にしないで」
女子高生が一人、ヤクザの事務所を訪問すると想像しただけで、晴太は冷や汗が出た。
「ちょ・・・・待って、北条さん」
ドアが閉じる前に、ドタバタと晴太も乗り込んだ。こうなれば一緒に行くしかない。
政子は五階のボタンを押した。目指す相手は最上階にいるようだ。
「知り合いがビルに入るところを見たって、そう言ったよね」
「ええ」
「友達?」
「・・・違う」
なぜヤクザの知り合いがいるのかを質問する前に、エレベーターのドアが開いた。
「今からでも遅くない。帰ったほうがいい」
政子は小さく頭を振って、躊躇なく正面の両開きドアへと進む。
あわてて後を追う晴太の脳裏に、彼女と過ごした幼少期の記憶がよみがえった。
二人で一緒に遊んでいると、決まって邪魔をする体の大きな男の子がいた。今にして思えば、その子も一緒に遊びたかったのだろう。いつも政子と一緒にいる晴太を妬む子は少なくなかった。
男の子は、晴太と政子を見かけるたびに、ちょっかいを出した。悪口を言うくらいはマシなほうで、気に入らないことがあれば、すぐに晴太を小突き、反抗すれば殴った。幼い頃のこととは言え、思い出せば今でも苦いものがこみ上げる。
「やめなよ」
政子が間に入ると、男の子はアカンベーをして逃げてゆく。
腕力でかなわない晴太は、いつも為す術なく殴られては、泣きながら家路につくのだった。
その都度、政子は、
「いたいのいたいの、とんでけー」
そう言って、頭を撫でながら家まで送ってくれた。彼女は実に優しい子供だった。
転機は八年前に訪れた。
風の噂に、政子の両親が離婚したと聞いた小学三年生の時、彼女から笑顔が消えた。晴太に離婚の意味は分からなかったが、元気のない彼女をなぐさめたい、どうしたら彼女はまた笑ってくれるのだろう、と独り思い悩んだ。
しかし、晴太は「自分の出る幕はない」と自分自身に言い聞かせるだけで、あと一歩を踏み出せなかった。彼女には大勢の友がいた。頼りがいのある友人たちが、打ち沈む政子を幾重にも取り巻いていたのだ。
彼女が学校へ来なくなった中学生の頃も、同じことの繰り返しだった。二人の距離は、あっけなく開いてしまい、時間だけが虚しく過ぎた。気がつけば、親しかったはずの二人は、赤の他人になっていた。
それでも、彼にとって政子が太陽であることには、いささかも変わりがなかった。彼女を遠目に見るだけで、心がときめく。嫌な事も忘れられる。様々な思い出と共に秘めた晴太の憧れは、埋火の如く、十数年来に渡って彼の内面を焦がし続けた。
今度こそ引かないぞ。僕が北条を守る。もう後悔はしたくないから。
スタスタと散歩するように歩む政子を追って、晴太も梵天組の事務所へ踏み込んだ。
(入っちゃった・・・)
ガクガクと笑いそうになる膝を叩いておっかなびっくり見渡すと、中はかなり広い。左手に応接セット。右手に事務机が並んでいる。武器の類いは見当たらなかった。
やけに静かだ。
そのわけは、すぐに分かった。
パーティションで仕切られた奥の一角に、十名ほどの組員が集まり、テレビ画面に見入っている。インドがどうした、とかいう声が聞こえた。
晴太は声を潜めて尋ねた。
「知り合いは、いた?」
「ここにはいない」
辺りを見回す政子の視線が止まった。正面右に、重厚な造りの木製ドアがある。
「まだ行くの?」
それに答えず、政子は再び歩を進めた。晴太も首をすくめて後に続く。
気付かれずに入ったは良いが、いつバレるかと思うと生きた心地がしない。
組員たちの後方を横切って、政子はドアノブに手をかけ、ノックもせずにそのまま開けてしまった。
ガチャリ。
二十畳ほどの広さがある部屋に、二人の男がいた。
一人は五十代と思しき男性だった。両袖机の向こう側に立ち、政子と晴太の闖入を咎めるでもなく、泰然と二人を眺めている。太い眉の下に切れ長の眼が炯々と光っていた。手前のソファに座る若い長髪の男性は、驚いて口を開け、眼を真ん丸にして二人を見ていた。左耳に十字架のピアスが光っている。
「なんだ、お前らは。あ・・・お前、政子・・・だよな。どうしてここにいる?」
「見かけたから追ってきたの。キミ、誰だっけ」
「誰って・・・なにを言ってんだ。覚えてないのかよ。それより、お前、怪我は・・・・してないのか?」
おかしいな、派手に落ちたけどなあ、と男は眼を眇めて首を捻った。
「あ、思い出した。キミ、私を穴に落としたわよね?」
政子はポンと手を打ち、フラッシュバックする記憶に眉をひそめた。
「わりい。つい、な」
悪びれもせず、誠二は片手拝みで謝意を示そうとした。
強制わいせつを目論み、失敗して政子を突き飛ばし、穴に落ちた彼女が動かないと見るや、脱兎のごとく逃げ出したのだ。その謝罪にしては、いかにも軽すぎる。
「酷い男だわ。それで、キミの名前は?」
「はあ? 三好誠二だ。マジで忘れたのか?」
「そうそう、そんな名前だったわね。ところでキミ、どうしてここにいるの?」
闖入者が言うべき言葉ではなかった。さすがに誠二もあきれ顔だ。
「おいおい、立場が逆だろ。ここは俺の家みたいなもんだ。お前こそ、なぜここに?」
「私はキミを見かけたから」
「文句のひとつも言いたいってか?」
誠二は笑いかけて、後ろに立っていた晴太に気付き、眼を細めた。
「その男は誰だ?」
露骨に敵意を表した。
身の危険を察知した晴太は、とっさに眼をそらし、震え出した脚を自分で強くつねった。
「気にしないで。友だちよ。それより、ここへ来たついでに、ヤクザの方と話をしたいの。後ろの人が責任者かしら」
「おい、口の利き方に気をつけろ。俺の親父殿だ」
ガラリと口調の変わった誠二には眼もくれず、政子は男に挨拶をした。
「初めまして。お話をさせて頂きたいの。お手間は取らせません」
政子はニッコリと笑った。
「無視するんじゃねえ!」
「誠二」
名まえを呼ばれただけで、誠二は押し黙った。
男性は値踏みするように、上から下まで政子を眺めた。
「嬢ちゃんの名前は?」
「北条政子です」
「ふむ・・・」
本物の持つ危険極まりないオーラは、晴太にもはっきりと分かった。誠二とは明らかに格が違う。眼を向けることすら憚られた。
「誠二、お前は外へ出ろ」
「しかし・・・」
「聞こえたか?」
「・・・はい。でも、そこの坊主はいいのか?」
親父殿にジロリと睨まれ、誠二はそそくさと部屋を出た。ドアが閉まるのを待って、親父殿は一人掛けソファに身体を沈めた。
「まあ、座れ」
「このままでいいわ。長居はしないから」
「そうか」
ふーっと長く息を吐き、
「表に見張りがいただろう。どうやって中に入った?」
「歩いて入ったわ」
「フフ・・・ハハハハハ・・・・」
親父殿は一頻り笑った。
そして、改めて問うた。
「どんな方法を使って、見張りをごまかしたのか、と訊いているんだ」
「言っても分からないわ」
晴太は冷や汗をかいた。こんな言い方をされれば、自分でもムカつく。
親父殿の眼が白く光り、視線が政子に刺さった。
「まあ試しに教えてくれ。下の二人は腕扱きでな。知り合いでもない高校生を、黙って通すようなことは絶対にしない」
仕方がないというように、政子は肩をすくめた。
「言うなれば神の御加護ね」
「神だと? ふざけるな」
「そんなつもりはないの。私はいつだって真面目よ」
彼女の口元には笑みが浮かんでいる。
「ふん・・・」
ひとつ息を吐いて、親父殿は徐に口を開いた。
「いい度胸だが、跳ね返りもたいがいにしておけ。子供だからといって、大目に見てもらえるとは限らんぞ。その意味がわかるか?」
声音が妙に優しかった。
これ以上は、ヤバい。
ブルっと身震いして、晴太は政子に耳打ちした。
「さっさと謝って、帰ろう」
「一人で帰りなさい」
「そんな・・・」
取りつく島もない。
本当に帰るわけにもいかず、晴太は黙って見守るしかなかった。
「私から言わせてもらうわ。誠二は息子でしょ?」
「まあ、そうだ」
「あいつ、私を遺跡の発掘現場に連れて行って、乱暴しようとしたわ。それだけで十分にひどいけど、その後がもっとひどいの。抵抗したら突き飛ばされて、その拍子に深い穴に落ちて、首が折れたの! どう? いろいろと最低でしょ」
政子は腕を組み、親父殿を睨んだ。
「それは酷い。フハハハ・・・」
おおかた政子の狂言だと思っているのだろう。本当に発掘現場で首が折れたなら、ここにこうしているわけがない。そういう解釈が成り立つから、親父殿は笑っているのだ。
「笑い事じゃないわよ」
「ハハハ・・・、そうだな。それでどうしろと? 謝ってほしいのか?」
「いいえ。その件は不法侵入と相殺でいいわ」
「ありがたい」
親父殿はニヤリとした。
「ついでに質問をさせて」
「いいだろう、と言いたいが、お前が本当のことを話すという条件つきだ。見張りはどうした? 殺したわけじゃあるまい」
政子は親父殿をまっすぐに見つめ、しばし黙考していた。
「いいわ。私の質問が終わった後でよければ、改めて答えましょう」
「ほう・・・主導権は自分にあると、そう言いたいのか」
「そうよ」
政子は「当然でしょ」と言わんばかりだ。
晴太には無謀としか思えないが、見る者が見れば、政子の貫禄は海千山千の親父殿に勝るとも劣らない。
政子を眺めていた親父殿は、微かに笑ったようだ。
「嬢ちゃん、ただの高校生じゃないな。よし、その度胸に免じて質問を受ける」
「え?」
意外な返答に驚いた晴太の高い声が、室内に響いた。
「あ、ごめん」
ひと言謝って、すぐに晴太は口をつぐんだ。
政子と親父殿が、そろって晴太に視線を注いでいた。
「・・・質問を受けた後で、侵入方法を明かしてもらおうか」
「それで結構。では、お言葉に甘えて一つ目の質問から・・・」
政子が話し始めた時、勢いよくドアが開けられた。
「おやっさん、大変だ・・・・あ、御客人でしたか」
ドタバタと立ち止まった身長二メートルに近い大男は、小さな目をしばたたき、言い難そうに口をモゴモゴさせた。
「構わん」
「あ、それじゃあ失礼いたしやす。あの・・・」
男は下を向き、再び口ごもった。身体に似合わず小心者らしい。
「いいんだ。話せ」
「へい。ビルが囲まれています。武装した奴らが大勢・・・です」
親父殿の眉間が曇った。
「数は?」
「二十は下らないと・・・思います」
「そうか。出迎えの準備をしろ」
「合点で」
男は巨体を翻し、部屋を出て行った。
親父殿は立ち上がり、
「そういうことだ。悪いが、続きはまたの機会にしてくれ」
「あの・・・」
「なんだ」
「敵、なの?」
「武装しているらしいからな。そういうことになるだろう」
「もしかしたら、私のせいかも」
親父殿はジロリと政子を一瞥した。
「・・・二十人の武装勢力だぞ。思い当たる節があるのか?」
政子は否定も肯定もせず、首を傾げた。
「変わった女の子だ」
親父殿の苦笑いは、思いがけない愛嬌があった。
「その辺に隠れていろ。さとしが囲まれていると言うなら、逃げ道はない」
「さとしって?」
「話はあとだ。うむ・・・一階から上がって来る」
監視カメラがあるのか、相手の位置が居ながらにして分かるようだ。
親父殿は大股に移動してドアを開け放ち、大音声で呼ばわった。
「野郎ども、出入りだ。誠二、お前は引っ込んでいろ。邪魔になる。鉄也、お前は後ろの子供二人を守ってやれ」
「合点」
鉄也と呼ばれた若い男は、茫然と立ち竦む晴太の前にやって来た。ガッチリした体に派手なアロハシャツが似合う。男は白い歯を見せて、ニコリと笑った。
「ここから出るな。机の陰で伏せていろ」
「あ、はい・・・北条、隠れよう」
政子は目をつぶり、微かに首を傾げて、じっとしていた。慌てもしなければ、逃げもしない。目前の危機が恐くないのだろうか。
「さとし、四方のビルはどうだ?」
襲撃を報せた巨漢が、天井を仰ぎ見た。
「向かいと左のビルに、二人ないし三人。屋上で銃を構えています」
「狙撃手だな・・・」
「へい、おそらくは」
「念の入ったことだ。権左、いるか」
「ここに」
小柄な髭面の男が音もなく現れ、床に膝をついた。
「屋上から出て始末してくれ」
「合点でさ」
言うや否や、男の姿が消えた。
「え?」
眼をパチクリさせて、晴太は辺りを見回した。権左と呼ばれた男は、どこにも見当たらない。煙のように消えてしまった。
「坊主、モタモタするな。ハチの巣にされてえのか」
早く隠れろという鉄也の眼は、もう笑っていなかった。事務所の組員が、隠し扉から黒光りする銃を取り出し、次々と手渡ししている。
もうすぐ、ここは戦場になるのだ。
俄かに焦燥と恐怖が晴太の全身を包んだ。
「北条、隠れよう」
政子は目をつぶったまま動かない。ブツブツと何やら呟いている。
「地水火風の精霊たちよ、我に力を・・・」
晴太は政子の手を取った。
「北条」
「どうした、坊主?」
「ええと、その、僕にもさっぱり・・・」
この状況で動こうとしない二人に対する苛立ちが、鉄也の顔にはっきりと表れた。
「おい、嬢ちゃん。命が惜しけりゃ隠れていろ」
鉄也がドスの効いた声を上げた。
その時だ。
政子の眼がパッと開いた。
「発動せよ」
事務所の出入り口ドアが勢いよく開かれ、黒ずくめの兵士がなだれ込んだ。
「うわっ」
晴太はとっさに北条の肩をつかみ、床へ伏せようとした。せめて自分が盾になろうと思ったのだが、政子は石像の如く動かなかった。
ダメだ、間に合わない!
彼は政子をかばって眼をつぶり、息を止めた。
もう死ぬのだと思った。ドクドクと脈を打つ自分の心拍音だけが、耳の奥に響いた。他には何も聞こえない。
目を開けたら、三途の川に立っているとか。
晴太は自分の想像に苦笑した。
「なんだ、これは・・・?」
背後から聞こえた声に、疑念が混じっている。
晴太は恐る恐る眼を開けて、後ろを見た。
ざっと十余名の兵士全員が、銃口をこちらへ向けていた。ピタリと静止したまま動かない。拳銃を持った組員も同様の有様だ。膝をついて銃を構える者、机の後ろに隠れようとする者、床に這いつくばる者。おのおのが、決死の形相を顔に貼り付けたまま止まっている。
晴太はポカンとして、その景色を眺めた。「だるまさんがころんだ」という子供の遊びを思い出した。鬼が見ている間は身動きできない、動けば負けである。
室内を見回して更に愕然とした。奇妙な生き物が浮かんでいるではないか。ヘビか、それともトカゲか。青い生き物は、龍一の上をくるくると回っていた。
動物は他にもいた。親父殿の上には、赤い蝶か鳥らしきものがヒラヒラ飛び回り、鉄也の背中には何十本という腕が生えている。これは「錯覚に違いない」と思った晴太は、何度も瞬きをしてみた。目を擦り、頬をつねってみた。しかし、奇妙な生き物は一向に消えない。治まりかけた晴太の心臓が、またも大きく拍動を始めた。
「これはいったい・・・?」
龍一は唖然として、事務所の中を見回している。誰ともなく、そろりそろりと動かぬ兵士の方へ歩み寄った。
「お・・・これ、弾だぜ」
発射された銃弾が、宙に浮いて止まっていた。よく見ると、ほんのわずかずつではあるが、銃弾は前に進んでいるようだ。そこから察するに、事務所内の時間の流れが、ほぼ止まっているのであろうと思われた。正常に動いているのは、政子と晴太を含めて六名だけだ。
「間に合って良かった」
政子は両手を胸の前で合わせ、小さく笑んだ。
耳ざとく親父殿が振り向いて、
「まさかと思うが・・・これは、お前らの仕業か」
二人の高校生を正面から見据えた。それだけで、大概の男は震えあがるほどの迫力があった。
後退る晴太の横で、政子は晴れやかに答えた。
「さあ、どうかしら。騒ぎも静まったことだし、私から質問をさせていただきたいの。よろしい?」
親父殿は棒を呑んだように目を瞠り、すぐに破顔一笑した。
「フハハハ・・・。いいだろう。坊主はどうする?」
呼びかけられて、晴太はやっと我に返った。隣の政子につかまっていなければ、今にも腰が抜けそうだ。
「ぼ、僕も・・・いいですか?」
「かまわんよ。おい、鉄也」
「へい」
「客人に茶を出してくれ」
「分かりました」
改めて奥へ案内された晴太と政子は、客としてのもてなしを受けた。数分前に乱入した組長の部屋である。テーブルには、香り高い緑茶と和菓子が並んでいる。菓子は晴太の大好きな有名店の銘柄だった。
同席した六人は、張りつめた空気の中、いずれも無言のままに喉を潤した。政子を除く五名は、彼女が口を開くのを、今か今かと待っていた。
護衛の意味もあるのだろう、親父殿を除く三名の組員は立ったままであった。組員の誰かしらがチラリと政子を見ては、隣の部屋へ視線を投げている。状況が状況であるだけに、落ち着かない様子が、そこからも見て取れた。
晴太は晴太で、そわそわと自問自答していた。
隣の事務所は、時間が止まったままだ。親父殿は「お前らの仕業か」と言ったが、こんなことできるわけがない。というか、こうして自分の眼で見ても、まだ信じられない。原因だって、皆目見当がつかない。親父殿を含む梵天組の面々にも、どうやら覚えがないらしい。そうでなければ、わざわざこういう席を用意する意味がない。ということは、やっぱり自分たちに関係があるのだろうか。それとも、神様がちょっとした悪戯心を起こしたとか。
いや、それはない。神様に知り合いはいないし、神様がいるとも思えない。
晴太は心当たりを考えてみた。
可能性はひとつ。政子だ。
夏休みの夜に見かけた異様な姿といい、カラオケに行く途中で会った男性の変わりようといい、武装勢力乱入直前の意味不明な呟きといい、彼女には不可解な点が多すぎる。「今まで黙っていたけれど、私は世界最高のマジシャンなの」とか言って、笑ってくれないかな。是非にも言ってほしい。
それから、組員の頭上に見えた奇妙な動物、そっちも気になる。ありゃなんだ? 武装勢力に関係があるとは思えない。今は見えないし、やはり錯覚だったのかな。錯覚にしては、色も形もずいぶん鮮明だった。仮に現実だったとして、ではあれが何なのかと問われても、サッパリ分からない。誰もそれを指摘しないっていうのも、なんだか不自然だ。他の人に見えていないなら、どう考えるべきだろう。
まさかと思うけど、そうは考えたくないけれど、自分は狂ってしまったのか。
「冗談じゃない!」
「急にどうしたの?」
政子が目を丸くした。
「あ、その、何でもないです」
妄想が暴走してしまった。もっと冷静に。落ち着け、落ち着け。
「体調が悪いなら、帰った方がいいわ」
「平気だよ。うん、平気・・・」
それにしても、割と皆さん平然としていらっしゃる。もっとこう、動揺するでしょ、普通。この状況ですよ。
「美味しいお茶だったわ。御馳走様でした」
丁寧に頭を下げた政子に、組員たちも釣られるように会釈をしていた。
「では、私からいくつか質問をさせていただきます。よろしい?」
「うむ」
親父殿が鷹揚に頷いた。
いよいよだ。
晴太の背筋が伸びた。
さとしが大きな体を丸め、まめまめしくお茶を淹れなおしている。
政子は晴太の家を訪問した時と同じく、人類の調査だと言った。
「ヤクザの皆さんとお話するなんて、とても貴重な経験です」
政子は折り目正しく「よろしくお願いします」と改めて頭を下げた。瞳が好奇心でキラキラと輝いている。
組長以下四名は、毒気を抜かれて言葉も無かった。それは晴太も同じである。
「先ず、反社会的な組織を運営しようと思われた理由から、教えてください」
「理由か・・・。そうだな、俺たちの組織は世の中に必要とされている」
「必要と思っているのは、あなた方だけではありませんか?」
晴太はヒヤリとした。政子の言葉には容赦が無い。もう少し相手の立場を斟酌しないと、こちらの身が危うくなりそうだ。
しかし、親父殿は気分を悪くした風もなく、淡々と答えた。
「堅気から見て悪人であれば、全て不要だと言いたいのか?」
「さあ、どうでしょう」
「物事そう単純ではない。例を挙げて話そう。ひとつ訊くが、覚醒剤は悪か?」
「さあ・・・明日葉くんはどう思う?」
「え、俺なの? そうだな・・・クスリは悪じゃないかな。違法だし、身体にも悪い」
言ってから、晴太は皆の機嫌を損ねていないかどうか、そっと窺った。
親父殿の口元に笑みが浮かんでいる。
「普通はそう考えるだろう。では、悪なのだから、売らないとしよう。ヤクの売買は無くなるかな?」
「明日葉くん、どうなの?」
政子は続けて晴太に尋ねた。自分で答える気はないらしい。
「また俺? ええと、たぶんなくならない」
「どうしてそう思う?」
「他の暴力団・・・もとい組織が売ると思う・・です」
「正解」
ヤクの種類にもよるが、多くは中米や台湾で生成される。梵天組が取引しなくても、他にいくらでも取引相手はいるだろう。
「では、仮にうちが売買を止めたとして、ヤクを使う人間は減るか?」
政子は無言で晴太を見つめた。わかったよ、と晴太は頷く。
「減らない、と思います」
「そうだ。うちの組で扱わなくても、他で買える。何が言いたいか、わかるかな」
「つまり、どうせ誰かが売るなら自分が、ということですか?」
「そう言っても間違いではない」
親父殿は静かに話を続けた。
「もう少し話を進めよう。ヤクも他の商売も根本は大差ない。需要があれば供給がある」
わかるか、と親父殿の眼が問うていた。
「今の世は、良くも悪くも金が神だ。金を信頼して社会が成り立っている。人は様々な手段で金を稼ぎ、物やサービスを買う。力で奪う者もいるが、それは例外としよう。基本的に、人は少しでも安く、安全で品質の良いものを買い求める。それが自分の欲しい物なら何であれだ。ヤクも武器も女も。そうして世の中が回っている。資本主義とはそういうものではないかな?」
「はい」
それは晴太にも分かる。政子は黙って二人のやり取りを聞いていた。
「うちの組は、他よりも品質の良いヤクを、少しだけ安く売っている。だから客はうちで買う」
「それは中毒者を増やしているのと、同義ではないのかしら」
政子の問いは、今度も晴太をヒヤリとさせた。真実は言わぬが花である。正しい指摘だからこそ、ひとつ間違えば組員たちが激昂しかねない。
親父殿は苦く笑った。
「そうかもしれん。だが坊主は言ったな。うちの組がヤクを売らなくても、買う人間は減らないと」
「はい」
「うちで売らなければ隣の組が売る。そこがどういう商売をすると思う?」
外国人居住者の増加に伴い、最近台頭してきた中華系のマフィアは、金にさえなれば何でもやるという。
最初は上等なヤクを安く売る。客がヤクの味を覚え、離れられなくなったころを見計らい、少しずつ品質を下げて値を上げる。品質の低いヤクは効きが悪い。だから頻繁に買うようになる。蟻地獄に誘い込まれた常用者の金銭的困窮は、火を見るよりも明らかだ。実にあくどい商売である。
「そこから取り立てが始まる。最後の仕上げ、というわけだ」
金が無くなれば、借金をさせる。返済に困れば、家財、土地、臓器、娘、売れるモノは何でも売らせる。そうして骨までしゃぶりつくす。そのやり方は、まさに獰猛なピラニアさながらだった。
「うちはヤクの品質を下げたり、値を上げたりはしない。人身売買もしない。だからといって、褒められた商売じゃないがな。どうだ、坊主なら、どこから買うね? フフフ・・・」
「・・・・・」
どこからであろうと、絶対に買いたくないと晴太は思った。
「毒を以て毒を制す、ということなのかしら」
「そのとおりだ。最初から毒が無くて済むなら、それに越したことはないだろう。だがな、毒でしか消せない毒もある」
「ふうん。問題が起こることはないの?」
政子が疑問を呈した。
「ある」
「例えば?」
「競業組織との縄張り争い。手下の不始末。官憲との駆け引き。毎日が戦争だ」
「大変そうね」
「まあな」
「いっそ解散しようとは思わない?」
壁際に居並ぶ三人の手下が、政子の言葉に反応した。面差しが見る間に険しくなってゆく。
「おい、口を慎め。言って良い事と悪い事くらい、わかるだろう」
「かまわん」
親父殿は軽く手を振り、手下を諫めた。
「解散か。世間様はそう願うかもしれんな。言っておくが、俺たちは好きで争うわけじゃない。こう見えて、不要な摩擦は避ける主義だ。総じて警察の活動には限界があるから、止むを得ないのだ」
「限界とは、どういう意味?」
「警察が動くのは、明らかに違法性があるケースだけだ。俺たちから見れば犯罪でも、警察が相手にしないトラブルは、それこそ無数にある。さっき言ったような金儲けにしか興味のないケダモノを、黙って見ている法はあるまい」
それに、と親父殿はいう。
「ここは最後の砦だ。俺たちには俺たちの存在意義がある」
言葉の意味を推し量るように、政子は首を傾げた。
「嬢ちゃんは誠二を知っているな」
「ええ」
「あれでも、少しはマシになった。ここへ来たときは、箸にも棒にも掛からぬクズだった。まあ、嬢ちゃんから見れば、今も大差ないだろうが・・・」
誠二は幼くして親に捨てられ、親戚の家をたらい回しにされた挙句、福祉施設に引きとられたのだという。近所でも、学校でも、どこへ行っても孤児は色眼鏡で見られる。厄介者扱いを受ける。子供同士のイジメなどは日常茶飯事だ。誠二に落ち度が無くとも、彼に降り注ぐ理不尽の雨は、決して止むことがなかった。
「ひどいわね」
「自分より弱い者は、憂さ晴らしの道具だ。それが世間てぇものさ」
「そんな人ばかりじゃないでしょう」
「いずれにしても、お前さんたちには縁のない世界だ」
幼い誠二の心は荒んだ。あたかも低みを目指す水のように、黒く汚れながら流れて行った。
ある日、福祉施設の簡易金庫が盗まれた。侵入の形跡がなく、内部の者による犯行と推測された。
日頃の行いは、こういう時にモノを言う。素行の悪かった誠二は、すぐに疑いの目を向けられ、やりもしない窃盗の罪を着せられて、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまった。
「なんでえ。畜生め。我慢我慢と言いやがるから真面目にやってりゃあ、揉め事は全部俺のせいときた。ようし、わかったぜ」
誠二は福祉施設に火をつけて飛び出し、以来、脅迫、強盗となんでもござれ。親父殿に拾われるまで、悪の限りを尽くした。
「組の者と喧嘩して、大怪我した誠二を引き取ったのが三年前。今は俺の子供だ。居場所があるってだけで、多少はマシになる者は多い。誠二もそうだ」
「あれでマシになったというの?」
「そう恐い顔をするな。誠二が嬢ちゃんに何をしたかは知らんが、許せないなら好きにすればいい」
「え? それはどういう・・・」
晴太が素っ頓狂な声を上げて、あたふたと口を閉じた。
親父殿は薄く笑い、
「ヤクザだからといって、犯罪を黙認するわけではない。まして堅気に手を出そうもんなら、絶対に落とし前はつけさせる。俺の組では、そういうことだ。お望みなら縛り上げてここへ連れて来よう。ただし、手を下すのは嬢ちゃん自身だ」
「言いたいことが見えないわ」
「お前さんを信用して、筋を通すと言っているだけだ。たとえ嬢ちゃんが誠二を殺したとしても、外へ漏れることはないから、存分にやってくれ」
政子の表情に変化はなかった。
「私の言ったことを信じるのね」
「そうだ」
「なぜ?」
「危険を冒してここまで来て、下らん嘘をつくとは思えん。違うか?」
「ふうん。では、彼にふさわしい罰を下します。二度と女性に暴力を振るわないように」
政子はパチンと指を鳴らし、口角を上げた。
「質問を続けてもいいかしら。ここは社会から脱落した者の受け皿なの?」
「手厳しいな」
これには、ヤクザ四人が揃って苦笑いせざるを得ない。
「組にはそんな一面もある。どんな野郎でも居場所さえあれば、ひとりぼっちで自暴自棄に生きるよりマシな人生になるのさ。そうすりゃあ、役に立つとまでは言わないが、他人様にかける迷惑も減らせるって寸法だ。わかるかね? 俺の経験からも自信を持って言える。どうだ、必要悪の答えになっているか」
「そうね。参考になったわ。最後にもう一つ訊いていい?」
「どうぞ」
「私は明日葉くんを除いて、全員を拘束したつもりだったの」
政子は事務所をチラリと見た。
「でも、ここにいる四人は平気みたい。あなたたち、普通の人間じゃないわね。何者なの?」
四人のヤクザは、眼を細めて破顔した。
「それはこっちが訊きたい。嬢ちゃんこそ、いったい何者だ?」