紫垣王の宮女達
最も皇太子に近いところに居る、そう噂されている紫垣王の宮女試験には国中から美姫が集まった。琴に囲碁、書に絵画、そして本来であれば端女にやらせる料理に至るまで、数多くの試験を通り抜けたのはわずかに三名。
紫垣王府を預かる家令はもう少し人数を増やしてもとぼやいたが、紫垣王たるシュウは、三人でもまだ多いと考えていた。
実のところ、シュウにはまだ妻を娶る意志はまだ無かった。辺境にくすぶる火種、未だに介入の機会を伺っている異民族を守るべき都市、ロンシャンが密かに自治を求めて動き出しているという。
ロンシャンに中央より派遣されていた行政長官、シン・クーリュー一家が何者かによって惨殺されたという一件も、未だに下手人があがっていない。
遠方ゆえに直接捜査に出向く事ができない事がもどかしく、嫁選びなどしている場合では無いのだ。
だが、シュウは考えを改めた。宮女候補の中にクーリューの娘が居たからだ。
運良くただ一人凶行から逃れた娘から直接話を聞きたいとシュウは願ったが、家令につっぱねられてしまった。
最終決定前に特別扱いをするべきでは無いという事だったからだ。
やっと三人に絞られたという事で、しびれを切らしたシュウはすぐ様クーリューの娘との面談を望んだのだが……。
「なりません」
家令の言葉は相変わらず冷淡だ。
「何故だ、もう三人に絞り込めたのだろう? クーリューの娘も無事に残ったというし、私の宮女であるならば、直接会う事に何の障害があるというのだ」
「シン・クーリューの娘子は残ったお二方に比べて家格が低いからです、お一方は皇后のご一族、もうお一方は宰相閣下のご息女です、クーリューは一地方官に過ぎません、ましてや後ろ盾である父はもうこの世には居ないのです、そうなれば、先のお二方の面談が済むまではお待ちいただくのが筋というもの」
日頃であれば礼儀作法にうるさい家令の言葉には不承不承従うシュウだが、今は事情が違った。
「私の宮女で、いずれは妻になる女達だ、序列も順番も私が決める、何の不都合があろうか」
家令としても、殺人事件の捜査を第一に考えている紫垣王シュウの考えはわかる、けれどもし仮に、クーリューの娘に最初の渡りがあったとなると、紫垣王自身の立場が危うくなる。紫垣王達兄妹の母親が皇后に収まっていれば何の問題も無いのだが、現皇后はシュウ達と血の繋がりが無い。今のところ身ごもる気配の無い皇后ではあるが、もし万が一子ができたとなれば、紫垣王達の立場はいっそう不安定なものとなるだろう。
皇帝が自身の即位後皇太子を定めずにいるのも皇后の差金である事は明白だった。
シュウとしては、シン一家殺害の下手人をあげる事で民の安寧とロンシャンの治安を守りたいという使命感と、自身の存在感を出す事で皇后に対して牽制したいところもあった。
無実でありながら、謀反の嫌疑をかけられて失脚した生母の為にも、次代の皇帝の地位につくという事はシュウにとっては悲願でもあった。
命だけは助けられたものの、寺へ入った母を守る為にも、宮中で確固たる地位を維持し続けなくてはならないのだ、弟と妹の為にも。
そんなシュウにとって、不本意な形で縁を繋げかねない今回の宮女選定は望ましい事では無い。しかし一人の妻が居ないというのもそれはそれで皇太子になる為の資質を欠く事にはなる。
父には皇太子として立つ前から妻があった。父が皇太子として立ったのは、シュウだけでなくセイが産まれて間もなくの事だった。次代に繋がる、繋げる事が既に確定していたという事も、皇太子に指名された理由の一つであるならば、シュウも宮女選びを先延ばしにするべきでは無いのだ。
「……これでは、フェンの事を諌められないな」
自分と同様に、沿う相手を好悪の感情のみで選ぶ事のできないと妹を窘めながらも、そのように政争の具にしてしまっている事も、本心ではすなないと思っているシュウは、覚悟を決めなくてはなるまいな、と、ひとりごちるのだった。
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フェンは上機嫌だった。縁談については、結局進みも壊れもしていないものの、思いがけず知り合ったジンランという男と再会を約す事ができたからだった。
紫垣王府に入った誰かに並成らぬ感情を持ち合わせているようなジンランだが、それが兄の宮女の誰かであるならば、ジンランの思いは遂げられないのだから。
我ながら、イヤな子だな、と、フェンは恥じ入りながらも、再会の約束を交わした事を喜ばすにはいられないのだ。
猩紅公主たるフェンも本来自分の屋敷を持つ事はできるのだが、いずれはどこかへ嫁ぐ身と、兄であるシュウの暮らす紫垣王府に部屋を持っている。
皇后の思惑にたやすく迎合する父である皇帝に不満はあったが、自分の屋敷を持ったら持ったでその維持や管理について少なからず仕事をしなくてはならず、居候であれば己の身の世話と、気の合う数名の侍女と共に、それほど不便は強いられては居なかった。
これまでは。
何しろ兄は宮女という名の妻候補を複数名邸内に迎え入れる事になる。半ば紫垣王府の女主人のごとく振舞っていたフェンとは対立する事もあるかもしれない。
そんな思いで奥向きの広間をこっそり覗きに行くと、案の定、選定の終わったのであろう、女が三人待たされていた。
三人のうち二人は見知った顔だった。一人は皇后の弟の娘、つまりは姪にあたるジエンと、宰相の娘のチェーツゥだった。どちらもフェンとは歳が近いが、共に遊んだ事はあまり無い。
正確には、幼い頃遊んだ事はあったが二人と遊んでも楽しく無いと判断したフェンが自ら距離を置いたのだ。
三人目は見たことの無い顔だったが、他の二人に比べると装束の格がいくらか落ちる。しかし、華美な衣装や化粧を割り引いても、三人目の容貌は二人に勝りこそすれ劣ってはいなかった。
むしろ、キラキラしく飾り立てた二人よりも、色味の趣味もよく、そして何より聡明そうな顔立ちだった。
随分待たされているのか、不満そうな二人に対してあくまでも静かにそこに佇んでいる。その様子はまさしく佳人といった様子で女であるフェンから見ても見惚れるほどに美しかった。
「……いったいいつまで待たせる気かしら」
苛立った様子で爪を咥えながら言うジエンに、チェーツゥが不快そうに言った。
「きっと、どなたかのご親族がゴリ押しにやって来て、本来残されるべきではない方を無理やり残そうとしているからでは無い?」
あきらかに挑発するように言うチェーツゥに、売られた喧嘩は残らず買わなくては気がすまないのか、受け流せないジエンが真っ向から対立し、答えた。
「そうね、成り上がりの小役人の娘とか、産まれの卑しい者が残されているかもしれませんものね」
宰相は、太上皇帝に最も寵愛された才人の兄だった。元は一地方の文官に過ぎなかったが、妹が皇帝の寵を得るやまたたく間に頭角を表して、皇帝が太上皇帝として表舞台から距離を置いた今でも宰相位に残っている。
皇后の引き立てによって成り上がった父を持つジエンと状況としては似たりよったりであるが、先帝がしりぞいてもなお宰相位に留まれている事を考えればチェーツゥの父の方が才覚には恵まれているのでは無いかとフェンは思った。
……それにしても、と、フェンは唇に指をあてて沈思した。シュウ兄様にはよりどりみどり選び放題なんて悪態をついてしまったけれど、選ぶ相手がこれでは私とあまり状況は変わらないのかも……と。
ジエンもチェーツゥも早い段階で紫垣王に秋波を送っていた。宮女『選定』などと言いつつもどこまで公平だったのか、二人の琴や書の腕前を知っているフェンにはあからさまな忖度が働いているようにしか思えなかった。
救いは見慣れない三人目の女だろうか。ジエンとチェーツゥが何らかの後押しで合格したのであれば、ただ一人試験を通過できたのは彼女だけという事になる。
超然と、快も不快も表に出さない様子を不快に感じたのだろう、ジエンとチェーツゥは、めずらしく二人手を組んで三人目の女を吊るし上げるようにして前に立ちはだかった。
「とりすましていらっしゃるけど、私はあなたの事を揶揄していたのよ」
「涼しげな顔をして……身内にご不幸があったそうじゃないの、喪に服す事もせずに己の立身の為に遠路遥々……恥ずかしくはないの?」
三人目の女は二人に視線を送る事もせずにどこか遠くを見るような目をしてにっこりと微笑んだ。
「おかまいなく」
次の言葉に繋がらない言葉に二人は絶句し、侮辱されたと思ったのか怒涛の追求を始めたが、三人目の女はそもそも聞く耳を持っていないようだった。
「……いい性格してるなあ……」
あやうく声に出しそうになったのを寸手で堪えた、しかしそれはフェンの素直な感情だった。
三人目の女はジエンやチェーツゥの予備知識を持っているのだろうか、あの二人の事だから試験中であってもしきりに自分たちの出自を明かして他の宮女候補達を牽制し続けたに違いない。
わかってあのような態度をとっているのならば相当なタマだという事だ。
「それとも、宮女になる事を反対されてあなた自身が家族に手をかけたのかしら」
ジエンの言葉に、三人目の女が初めて顔色を変えた。白く冷たかった顔に暗褐色のモヤがかかったような、地鳴りの前触れのような、静かに怒りを抑えこんでいるような、そんな凄みをフェンは感じた。
「おっしゃりたい事は他にありませんか? これ以上耳障りな声を発するそのお口……」
三人目の女が手にしていた籠から何かを取り出した。
「縫い付けてさし上げましょうか」
キラリと女の指先が光った。女が手にしていたのは縫い針と糸だった。ピンと張り詰めた糸はギリギリと引き絞られたようで、その糸に触れただけでも指先をさくりと切り落とせそうなほどに剣呑な様子で、さながら暗器のごとしである。
「やっぱり! あなたなのではないの? 一家皆殺しの犯人は」
「誰か! 誰か来てぇぇぇぇ!!」
ジエンとチェーツゥがうろたえて騒ぎ始めたところで、機会をうかがっていたらしい、シュウが現れた。
突然姿を現した紫垣王の姿にジエンとチェーツゥはあからさまに狼狽えた。よくよく見れば試験で苦闘したゆえか二人とも髪は乱れ、化粧もくたびれている。
元の造作を押し上げるほどの巧みな化粧の出来栄えをここは賞賛するべきか、はたまた化粧直しもせずに三人目の女をいたぶっていた事を悔いるべきか、恐らくは後者だろう。
ジエンとチェーツゥは何故か三人目の女が悪いとでもいうように二人揃って女を睨みつけたが、女はそんな二人の視線を気にもとめていない様子だった。
「ロンシャンのシン家の者が居ると聞いたが……」
シュウはあわてふためくジエンとチェーツゥの二人を一顧だにせず、三人目の女のみに注目しているようだった。
ロンシャン、という地名にフェンはどきりとした。ジンランもロンシャンから来たと言っていた。ロンシャンのシン家の娘があの三人目の娘ならば、ジンランが気にかけていたのは彼女という事になるのだろうか。
「私です、殿下」
三人目の女はすっと立ち上がり、シュウに対して拱手をした。
「立って名を名乗られよ」
そう言いながらシュウもまた膝を付き、女の手をとり立ち上がらせた。
女は軽やかな足取りで立ち上がり、一礼して答えた。
「シン・クーリューが娘、リュセと申します」
立ち上がれば舞うようで、座っていれば花が咲いたような、優雅に振る舞うリュセはその場にいる二人より遥かに美しく、聡明に見えた。