太上皇帝
都のはずれ、先帝、つまりはフェン達にとっては祖父にあたる太上皇帝の住まいは、元々は亡き皇后を偲ぶために作られた離宮だった。
宮女百人とも言われた後宮を持っていた先帝であったが、格別な寵愛を受けた者は多くは無い。
皇太子時代から連れ添った皇后には子が産まれず、新帝、つまりフェン達兄妹の父の母は数多く居た皇妃の一人にすぎない。存命ではあるが、皇太后とはならず、さらに遠くの離宮で生活をしている。皇帝の母としてはかなり地味な待遇であったが、それに対して異を唱える事をしないのは、未だに太上皇帝として先帝が目配せをしているからだった。
都のはずれであるがゆえに、立ち入る者は嫌でも目立つ。
そして、離宮にやってくる者達を記録し、皇帝に報告が入っている事を知っている太上皇帝は、息子のそうした卑小さに苛立ちつつも、人を置いただけで安堵している蒙昧さにほっとしているところもあった。
太上皇帝の元に届く知らせは人が運んで来るだけでは無い。鳥や、時には物売りのふりをして届けられる細々した書簡の類は、皇帝よりも多くを知り、未だに国中を掌握しているのだった。
太上皇帝、銀梟帝ことインシャオは、余生の楽しみというには精巧すぎる模型を、そうした地方の報告をとりまとめた書簡を元に作り込んでいる最中だった。
白銀の髪をゆるやかにまとめ、くつろいだ姿ではあったが、眼光は宮廷に居た頃と遜色ない鋭さで、仕上げにかかっているのはフェン達の居る沼沢地のものであった。
ちらり、と、視線を移した先は国境防備の要であるロクシャン。
次に息子である新帝がいる都と次々と視点を移していく。
宮中からは、孫の紫垣王が動いた以上の報せは入っていない。公主一人が居なくなった事を父親である皇帝は息子にまかせ、重きを置いていないように見える。
しかい、いくら太上皇帝の目となり耳となる者が宮廷内でいまだに確固たる地位を占めているとはいえ、今宮中にインシャオの席は無い。新帝の妃、今は皇后となった女狐が暗躍しつつある今、インシャオが把握していない事実がある事は考慮しなくてはならない。
ジンランの父、ロクシャンを守護する将軍であるカザンは、今回の出来事すべてを掌握しては居ないが、今のところ太上皇帝の想定の範囲を大きく逸脱するような動きはしていない。しかし皇后については、どんな動きをとってくるかがわからなかった。
明確な目標らしいものが、自分の息子を皇太子にする事以外見えてこないからだ。
子作りに励んでいるらしい、というところまでは把握している。だが、その結果が出ていないのは、女官達に紛れ込んでいる間諜からも届いている。
カザンはよくも悪くも武人であり、功名心や栄達までに道筋が読めるのだが、皇后はそうでは無い。
うっかり目を離すと、国が滅びる事すら厭わないのではないかという場面が多々あるのだ。
だから女は嫌なのだ。と、インシャオは模型をいじくりまわしながら思った。
幼い頃より皇位を継ぐと教えられ、そのように教育されたインシャオにとって、情や私欲の為に、国を滅ぼすというのは、はあり得ない選択肢だ。
新帝、フェン達の父であるツゥーエイは平凡な男だが、それだけに滅多なことはしないだろうと思っていた。だがとっておきの悪癖があった。女を見る目がまったく無いのだ。あれの母を皇后として遇しなかったせいなのか、自分は同じ轍を踏むまいと考えたのか。インシャオは唇を噛む。
本当に、息子では無く、孫である紫垣王シュウを皇帝に据えるまで在位できたらどれほどよかったか。
今更悔やんでも遅く、新皇后を暗殺をする機も見失ってしまった。
今となっては孫達だけがたよりなのだが、こうなってくるとそれもどうなるものか。
これを試練として這い上がるだけの力量があるのか。
非公式の盟友でもあるバンラは、孫娘であるフェンをいたく気に入ったようだった。亡き皇后の、インシャオが最も愛した女の面影を色濃く受け継いでいる、とも。
血のつながらないはずのフェンに皇后の面影を見るというのも妙な話ではあるが、バンラが言うのであればそれなりに説得力がある。
インシャオ自身もそのように思う事があったからだ。
――フェンが、男子であったならば。
誰にも言ったことの無かった考えが浮かぶ。三人の兄妹、長兄のシュウは有能ではあるが、それがゆえに父にすら警戒されている。無能のふりをするような器用さの無い、シュウの有能ぶりは本来は副官こそがふさわしいとインシャオは思っている。
次兄のセイは、人柄については問題が無いのだが、どこか人の顔色をうかがってしまい、我を通さず、流されてしまうところがある。兄をたてる事を産まれた頃より刷り込まれてきたのだから無理も無いのだが。だが、それだけに敵を作らない。しかし、時に苛烈な判断をしなくてはならない皇帝とは真逆の性質だ。
セイ自身が確たる信念を持っていない事もあるが、兄を敬い、たてようとするあまりに己を殺す事に慣れすぎているようなところもある。
フェンは、女子ゆえか兄達へ遠慮も忖度も無く気ままに振る舞う事ができ、なおかつその情の細やかさは王者の貫禄めいたものがあった。身内への情の深さは、女ゆえなのか。父にも兄にも無いそれが、実は最も上に立つ者の資質として強靱であるというのは皮肉であった。
かつて、女の王が立った事で国が荒れた事は歴史に新しい。
同母の兄が二人いて、他にも、腹違いの兄も弟もいるフェンに玉座が巡ってくる事など万に一つもあり得ない。
あり得ないが、カザンは公主であれば誰でもよいと思ったのだろうか、いや、違う。最も皇太子に近いシュウの同母の妹であるフェンを、異民族の血をひくという次男に妻合わせたのは何の為か。
恐らく、カザンが狙っているのは中央の玉座では無い。街道を守護するロクシャンの独立。王家の血を引く二人を、その頭に据える事。
そう考えると、中央から派遣されていたシン・クーリューはさぞや邪魔な存在であっただろう。
中央の玉座、皇位ではなく、辺境を独立させる事がカザンの狙いであるならば、一家惨殺事件の犯人はおのずと見えてくる。
問題は、新皇后とカザンがどの程度呼応しているのかという事だった。
それぞれがそれぞれで目的があって動いているのであればまだいい。
だが、明確な野心を持ったカザンに、目先の欲の為には手段を選ばない新皇后が呼応したならば。
どうにも剣呑な兆候であった。
しかしそれに気づいたところで、インシャオには動かせる兵が居ない。バンラ達が首尾よく新皇后一派とカザンに繋がる線を見出して対応できればよいが、もしそれができなければ……。
「未来ある若者達の邪魔だけはしてくれるなよ……」
思わず声に出して言う。
それらも、母親が皇后として遇されなかった事に起因するのだとしたら、
どれだけ人を操っても、跡継ぎである己の息子一人御する事のできない不甲斐なさに、太上皇帝という立場をもってしても、ただ父として息子を諌められない己へのいらだちを、インシャオは拭い去る事ができないのだった。




