残された二人
ジンランには縄が打たれた。
そして、救援に来た紫垣王一行は、引き下がる事になった。
当然、人質として表に立ったのはフェンだった。
フェンは、リュセが兄によって救い出された事に安堵した。
そして、兄には戻るよう伝えた。
フェンとしては、兄の手勢に損傷が出る事は本意では無かったし、できる事ならジンランも連れて帰って欲しかったのだが、それは許されなかった。
……かくして、絲束の賊の元にはフェンとジンラン、そして、二人にとってはどうでも良かったがシャングが残された。
シャングは、ジンランによって破壊された格子戸から逃げ出し、ぼやぼやしているところを再び拘束された。
シャングに少々の胆力と度胸があれば、隙きを着いて紫垣王の救援の元まで逃げる事も不可能では無かったが、残念ながらシャングにそのような甲斐性は無かった。
かくして、フェンはバンラの手に落ち、ジンランも縄を打たれたまま、残された。
ジンランを側に置いておくという事は、いつフェンを救い出されるかわからない状況ではあるが、バンラとしては、閉じ込めたところでどうせ逃げ出すし、勝手な動きをされるくらいなら目の届くところに置いておいた方ましだという判断だったのかもしれない。
バンラは、手下を呼び、ジンランを拘束させると、人払いをした。
「あんた、あたしの男にならないかい?」
傍らにフェンを置いたままバンラがジンランに尋ねた。
「はあ?!」
フェンとジンランが同時に頓狂な声を出した。
フェンはバンラの年齢が見た目に反する事を知っている。
ジンランは先程バンラから誘惑されそうになった事を思い出した。その時は、フェンを人質にはとられていなかった。当身で逃げ出したが、今はそうするわけにはいかない状況だ。
「あんたは少しここで見てな」
そう言ってバンラはフェンを柱に括り付けた。
「離して、はーなーしーてーーーーッッ!!!」
じたばたと足をばたつかせて、身をよじる。
「黙って見ておいで、ジンランがどんな風に女を相手にするか、教えてあげるよ」
「そんなの知りたくないし!! だったら私が相手になるってば!!」
思わずフェンが叫ぶと、バンラは愉快そうに笑い、ジンランは赤面した。
「と、公主様はおっしゃってるが、あんたはどうなんだい?」
バンラが愉快そうに意地の悪い微笑みを浮かべる。
「公主サマとあたし、相手にするならどっちがいい?」
すると今度はフェンが真っ赤になった。
「ふーーーーーーん」
にやにや笑いながら、バンラはフェンの戒めを解いた。
「では、公主サマの望むとおりに、ああ、一つだけ、連れ立って逃げるのは無しだ、正直ジンランはどうでもいい、公主サマを一人残して逃げるのなら見逃すが、公主サマを連れて逃げるようなら……」
「あんただけは斬る」
それまで拍子抜けするような笑顔を見せていたバンラが唐突に表情を変えた。初めて見せたそれこそが、鬼蜘蛛、バンラの本来の姿であったのかもしれない。
怜悧な、時には人殺しも厭わない盗賊の顔。
バンラはフェンとジンランを二人きりにして、部屋から出ていった。
戒められたジンランと、拘束を解かれたフェンだけが残された。
フェンは迷っていた。ジンランの戒めを解いて逃がす事がこの場において最良の選択肢だと思っていたし、バンラもそれを見越してそうしたのだろう。
絲束の賊達は、フェンの身柄さえ抑えておけばよいように思える。
その先に、どこへ連れて行かれるかはわからないが、ジンランが同行し続ければ、遠からず殺されるのだろう。
それは避けたかった。
「フェン殿、どうかこの戒めを解いて、逃げましょう、二人ならば何とでもしてみせます」
ジンランは言った。
「……何故戻ったの? リュセを連れて逃げなさいと言ったでしょう?」
フェンから出たのはジンランを責める言葉だった。
「俺は貴女が……その……」
頭目に手篭めにされているのでは無いかと不安で、とは言えなかった。
「助けなくてはと思って」
「私は頼んでません」
「一人でどうするつもりだったんだ!?」
カチン! と、きたが、すぐには言い返さず、つかつかと縛られたジンランの元へやってきて、声が響かないよう耳元で囁いた。
「こいつらの目的は私、幸いにして今の所殺される事は無さそうだし、交渉を進めて黒幕の情報を聞き出すつもりだったのに」
挑戦的に睨みつけるフェンを、指先でちょいちょいと招くようにして、ジンランも耳元で囁いた。
「あいにくだが、黒幕の目星なら俺もついてる」
フェンとジンランは互いを見た。
「頼む、この戒めを解いてくれ」
懇願するようにジンランがフェンを仰ぎ見た。
しゅるしゅると縄を解く音を、バンラは外で聞いていた。
ややあって、睦み合う男女の甘い声に変わると、犬も食わないというような顔をして手下を呼びつけると、扉の外を見張るように言いつけてその場を立ち去った。
なんだい、もう出来上がってるんじゃないかい。
そう思いながら。
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「……行ったか?」
「足音が遠ざかって行くみたい……だけど」
場所を寝台に移して、フェンとジンランは『ふり』をした。出来上がっている男女のふりだった。
ジンランの方は慣れているのか、あまり動揺していないように見えたが、フェンは演技であって演技では無かった。
このままでは話合いもできない、合わせて欲しいと言われて、ジンランに従った。
距離の近さと、耳にかかる息と、響く声に驚いて、フェンの鼓動が収まらない。
「見張りは……残ってる……けど、まあ、彼女に残られるよりはマシか」
ジンランはフェンを抱き寄せている事に気づいてあわてて体を引き離した。
「……すまない」
ジンランに謝罪されても、フェンはすぐに何かを言う気持ちにはなれなかった。
助けに来てくれた事をうれしいと思ったし、咄嗟の事とはいえ、名を呼ばれた事も。
「……だめよ」
フェンはジンランを寝台に押し倒して、腕の中に身を落とした。
「ちょ……フェン殿?」
「覗かれてる……」
「ええっ!?」
「しいいいいいい、だから、……その、この状態で」
フェンはジンランに腕枕をされている体制になって、添い寝をする形になった。甲冑を身に着けていないので、互いの体温を感じるほど近い。
「睦言を交わすように話さないと……」
恥ずかしさのあまりフェンはジンランの胸板に顔をうずめる形になった。
フェンの柔らかな髪が、ジンランの鼻孔をくすぐる。
抱き寄せたいと思いながら、ジンランは手のやり場に困ってしまった。
ぎこちない様子のジンランに、フェンが言う。
「つらい? どこか、痛いところは?」
見上げるように言われて、さすがのジンランも赤面してしまった。
つらいと言えば確かにつらいし、痛いといえば痛いところもある。だが、それを素直にフェンに言うわけにはいかなかった。
「腕が……少し」
そう言いながら、ジンランの腕がフェンを引き寄せた。
腕にフェンの頭をのせて、引き寄せると、完全に抱き合っている形になってしまう。
だが、この体勢であれば、ふいに立ち入られても誤魔化しようがある。近いゆえに声もぎりぎりまで小さくする事ができる。
ささやきあうような形にはなってしまうが、今は互いの情報交換をしなくてはならなかった。
「俺は、ここから離れない」
「でも、それじゃあ……」
「俺は夫で、君は妻だ、妻を守りたい」
「あなたが愛しているのはリュセでしょう? 私の事にはかまわないで下さい、今回は事情が事情なのです、カザン将軍の息子が公主を娶る事に反発する者の仕業なのです、あなたは遠慮なく自分の思いをとげて」
フェンは、頑なだった。
だが、ジンランはそんなフェンをいじらしいとも思った。
「だが、君はどうなる?」
フェンが体を固くする。
「……兄が、助けに」
「君が追い返しただろう」
ジンランの腕の中で、フェンは身をすくめる他無かった。耳元で声がするたびに背筋がぞわぞわし、全身が熱を帯びている。
「……やっ」
フェンが甘い声を漏らすと、ジンランはどきりとして腕にこめた力を緩めた。
ジンランも唐突に意識してしまう。
「すまない、だが今はこうするしか……」
ジンランの鼓動を背中に感じながら、フェンはじっとしていた。
自分の音なのか、ジンランの音なのかわからないと思いながら、鼓動に耳をすますと、二人の音が同じ感覚で響いてくるように思えた。
こんな近くに、ジンランが居る事にフェンは戸惑い、驚き通しだった。
望んででの事では無い。けれど今確かに自分はジンランの腕の中に居るのだと。
耳に響く声に驚いておかしな声をあげてしまったり、きちんと話をする事もできない今の状況に、ジンランは呆れているだろうか。
フェンは確かめるのが怖かった。
この先、どうするべきか。バンラは、フェンがジンランを逃がす間をくれたものだと思っていた。バンラ達の目的はあくまでも自分であって、ジンランでは無い。
もちろん、賞金首としてのジンランにも価値はあり、それゆえに一度は侵入を許された事もあったが、今、ジンランは心中の虫である。
バンラも、ジンランを殺すのはしのびないと思ったからこそ猶予をくれたのだと考えると、そうする事が得策なのだとフェンも思っている。
だが、ジンランは残ると言って譲らない。
そうなると、もはやジンランは排除の対象になってしまう。
それだけは耐えられない。
生きていて欲しい、たとえリュセの元へ行ったのだとしたも。
そう考えていたのに。
「リュセと逃げたらよかったんです」
思わずフェンは考えをそのまま口にしてしまった。
「今ならば、兄もリュセを攫ったのがあなただとはわからなかったでしょう? それこそ、国境を超えて逃げてしまえば、あなたの思いは成就したのでは?」
いっそそうしてもらえたら、後は自分の身をどうにかするだけでいいのだ。自分の視界に入らないところで幸せになるのならば、まだ耐えられるのでは、と、フェンは思った。
「そうして、貴女を犠牲にしたという思いをこの先も引きずって生きろと? そんなのはご免ですよ」
「罪悪感を!! ……持ち続けたらいいじゃないですか」
思わずフェンは口にしてしまった。
それでも、憎まれてでも、ジンランの記憶に残りたい。
なんて愚かなのだろうか。
公主の自尊心でも、矜持でも無い。思われないなら、憎まれてでも記憶に残りたいなどと、けれど、堰を切ってしまった思いはもう止まらなかった。
「どうせ形だけの妻です、見捨てたところで誰も嘆きはしません」
「フェン殿っ!!」
「私を置いて逃げてくだ……」
感情的に涙を流しながら声をあらげようとするフェンの体の向きを変えて、たまりかねたジンランが自分の唇でフェンの唇を塞いだ。
「……っ!!」
驚いて目を開いたフェンを、ジンランは強く抱きしめて、唇を吸い続けた。
ジンランの腕の中で抗うようにもがき続けたフェンは、ついに観念したように力を失った。
ゆっくりとジンランが唇を離すと、放心していたフェンが起き上がり、したたかジンランの頬を張った。
小気味良い音を立てて、ジンランの頬に手形が残りそうなほど強くフェンが放った平手打ちを、ジンランは逃げずに受け止めた。
「……ごめんなさい」
あわててフェンが詫びると、ほぼ同時にジンランも詫びた。
「いやっ、俺も……」
「恥ずかしい、取り乱してしまって」
「そんな事は……」
フェンは、ジンランの行動が理解できなかった。何故そんな事をしたのか、ただの衝動だったのか。
ただ、昂ぶっていた感情が別の方向で爆発したのは確かだった。
思わず唇に触れる。
ジンランの感触がまだ残っているような気がして、フェンは再び赤面してしまう。
そして、ジンランも赤面していた。
それは、頬を張られた事による赤みだけではなかった。
二人共赤面したまま無言になってしまった。
何故、という言葉をフェンは飲み込み、落ち着いただろうか、という言葉をジンランも飲み込んだ。
今いる事、互いだけな事。
置かれた身の上だとか、立ち向かわなくてはいけない苦難だとか、ジンランの思い人がリュセだという事を一瞬忘れるほどに。
「俺は一人では逃げない、逃げる時は……君を連れて行く」
ジンランは身を起こし、もう一度フェンを抱きしめて耳元で囁いた。
……フェンは、今度は逃げなかった。




