屠蘇山
リュセは、とっくに自分は殺されたものだと考えていた。
目が覚めて、拘束されていない事に驚き、清潔な寝台に寝かされている事にも驚いた。
何か強い香りを嗅がされた事は覚えていたが、その後の記憶が朦朧としていた。
侵入者が襲ってくる前にフーチンを逃がせた事は幸いだった。
リュセはいくつかの可能性について考えていた。
そもそも、ロクシャンの実家を、一家を惨殺した者たちはまだわかっていない。その理由も。一族皆殺しが目的であったなら、いつ自分が襲われてもおかしくなかったはずなのに。
……油断した。
猩紅公主、フェン、紫垣王、シュウが、よくしてくれたゆえに、勘違いをしてしまったのだ。惨殺された一家の生き残りである事を。
遠い都、公子のお膝元である紫垣王府にいれば命の危険は無いのだと。
ジエンやチェーツゥが行ったとおぼしき嫌がらせなど、命を狙われる事に比べればどうという事も無い。そんな風に考えて気を抜いてしまっていたのだ……。
このまま宮女として、あるいは紫垣王の妃の一人として平穏に日々が過ぎていくのでは、と、淡い期待を抱いてしまったばかりに……。
だが、今こうして身体の自由が保障されているという事は、殺される事は無いのかもしてない。とも思った。
だが逆に、どこかへ売り飛ばされてしまうのかもしれない、とも思った。そうなれば自分は商材なわけだ、それは丁重に扱われるだろう。
自由の身で無くなる事は口惜しいが、生きてさえいれば、家族の復讐をする日も来るかも知れない。
リュセは、わずかとはいえ、安穏な生活に浸り、奇禍に見舞われた両親の復讐から意識が離れてしまった自分を恥じた。
ましてや、紫垣王妃など……。
リュセは、短いながらもシュウと過ごした日々を思い出して、我が身を抱き寄せた。
あれは、綺羅の思い出だ。
そう思うことにしよう。
幼い頃出会った、素性を知らない貴公子のように。
それは、リュセの心の最も美しいところにしまわれた思い出だった。
一家で避暑の為に訪れた別荘で、出会った少年。
たった一日の出来事で、翌日にはもう居なくなってしまった少年の面影をずっと置い続けていた。
もしやあれは紫垣王だったのでは、そんな風に思った事もあったけれど、今となっては確かめる術は無いのだ。
ここがどこで、自分がこれからどうなるか。
不安は尽きないが、前を向いて生きていく事は変わらないはず。
リュセは背筋を正し、身繕いをした。
ここがどこであったとしても自分は自分である事を、忘れないように。
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シャングは、石牢で目覚めた。両腕両足には枷が。牢だとはっきりわかる格子の中で、直接床に転がされていた。
寝具のようなものは見当たらず、共に行動していたはずの手下達も見当たらない。
紫垣王府へ、フェンをさらいに行き、首尾よく屋敷に戻ったはずだった。
だが、あれは紫垣王府からの追手だったのか、家人が斬られ、シャング自身も当身を食らった。
幸い、打ち身だけで、出血した様子は無い。
だが、どことも知れない牢の中で、ひとりぼっちにされているとは……。
紫垣王府内に地下牢があるとは知らなかった。
光がどこかから漏れているようではあるのだが、それが日の光なのか、炎による灯火なのかはわからない。湿気と黴の匂いは、空気の悪さゆえか。
このままこんなところにいたら、それだけで病気になってしまいそうだ、と、身動ぎしてみたが、太った身体にされた戒めは、簡単に解けそうには無かった。
そういえば空腹でもある。
シャングは大声を出して、人を呼んだ。
ここがどこであれ、自分は軽んじられるような人間では無い。
手下が見当たらないのは既に殺されてしまったのか。
自分が生かされているのは、その出自の尊さゆえだと信じて疑わないシャングは、空腹と、居住性の悪さを声を張り上げて訴え続けた。
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「あーーー、もう、うるさい、何なんだあのデブ、自分がどこにいるかわかってないんじゃないのか?」
地下牢のすぐ上、中庭に面した厩舎では、絲束の賊の一人が、来たるべく紫垣王達に備えて、戦支度の真っ最中だった。
「女はともかく男はどうにもならんだろ、あれ、めんどくせえからバラしちまうか」
「働き手にもなりそうにないしなあ、だいたいあの生白い肌、たるみきった身体、満足に剣だって使えないだろ?」
「石っくらいは投げられんじゃないか?」
「あー、ダメダメ、石の無駄だ、というか、石拾いも満足にできんだろ、あれじゃ」
「貴族様の家に生まれただけであんな奴でもたいして働きもせずに食いもんの心配をした事もないのか……、うん、俺もなんか腹立ってきた」
「やめろ、剣が血の油で汚れる、だいたい、死体の始末だって時間がかかるんだ」
「違いない、だいたい万が一家族が探しに来て、殺しの犯人にされて牢屋に居れられたらそれこそ割にあわねえや」
シャングが殺す価値すら無しと、盗賊共に言われている頃、紫垣王達よりも先に屠蘇山に着いたジンランとフェンは既に盗賊達の根城に侵入を果たしていた。
正しくは、ジンランを捕えた女盗賊のふりをしたフェンが、と、言うべきか。
屠蘇山へ侵入するにあたり、ジンランの風貌は知れ渡りすぎていた。ロクシャン防衛軍、金色の髪の武将、ジンランは、耳敏い盗賊ならば噂くらいは皆知っていた。
当初、ジンランが盗賊志願の浪人に扮すると言い出したのだが、フェンが反対した。どう考えてもジンランが浪人というのは無理がある。
フェンは、着ていた装束の裾を短く切り、足を出した。髪を男のように結い上げて、ジンランの手甲と胸当てを細工して、身につけると、急ごしらえながらも、目端の利きそうな女盗賊見習いくらいには見えそうになった。
……結果、ジンランは牢に入る事になり、フェンは屠蘇山の盗賊団に入る事に無事成功したのだった。
牢にはリュセや、場合によってはシャングも居るだろうという目算であったのだが、当てが外れた。ジンランが繋がれたのは頭目の妻の元だった。
ジンランの見た目に、頭目の妻は以前から目を付けていたらしい。賞金首として隣国へ売り渡す前にいたぶって弄びたいという頭目の妻の言い分を頭目は許した。
当初、頭目は、どうせ賞金首だとして、ジンランの手足の腱を斬ってしまえと言い出したのだが、傷をつけたくないという頭目の妻の言い分が聞き入れられて、フェンは安堵したが、次はフェンの方に危機が訪れていた。
「お前、あのジンランをどうやって捕まえた」
人払いをされて、頭目の部屋に残されたフェンは頭目から詰問されていた。絲束の賊の頭目を名乗る男は、いかにも手練といった眼光鋭い初老の男で、鍛えられた様子はジンランやシュウとはまた違った、使い込まれた職人の道具のように動きにも無駄が無い。
卓を挟んで向かい合っている間も、気を抜いたら斬りつけられるような緊張感が終始漂っていた。
「く……薬を……もったんです、女だと思って油断していたので」
「ほう? お前は薬を調合する事ができるのか?」
「兄が……そうした事に詳しく……」
苦し紛れに言ったが、二番目の兄、セイは、ほんの少しではあるが薬学の心得がある。嘘では無い。
「ほう? 兄がいるのか? 盗賊家業の妹に、薬に詳しい兄……ねえ」
いぶかしむ頭目に、
「私は……っ! ……女ですので、油断もあったかと……」
思いつく限りの言い訳を考えながら、必死で取り繕う。少なくとも、今フェンが頭目と対面している間であれば、ジンランは動けるはずだった。その間にリュセを見つけて、連れ出す。
それが今回の策だった。
無謀だ、と、ジンランは言った。
だが、他に方法は?
と、言ったのはフェンの方だった。
曲がりなりにも公主のフェンに、女盗賊のふりをして頭目の気を引きつけるなどという事ができるのかと、ジンランは言ったが、やってみれば案外何とかなるものだ、とフェンは思い始めていた。
「ほう……女を武器に使ったか」
意味ありげにつぶやくと、頭目はフェンの身体を無遠慮に睨めつけた。
足の先から、じわじわと這い登るような視線は不快で、フェンは思わず目を逸らす。
「……どうも、お前にそのような術が使えるようには思えないんだがな」
「雇い主になるかもしれない方に対して、そのような怪しげな術は使いませんよ」
フェンは視線をはずしながら、わずかに空間を置くように身を引く。
「ほぅ? やすやすと手の内は見せない、と、そういう事か?」
「ええ! そうです、もちろんです」
安堵したように、フェンが頭目の方を見ると、頭目は興味深そうにフェンを見る事を辞めなかった。
不快感からフェンが立ち上がると、頭目は間にあった卓を蹴り飛ばして一息にフェンまで間合いを詰めた。
「やッ……」
身をよじるフェンを頭目が抱え上げた。
「ふん、こんな細腕で、あの歴戦のジンランをどうにかできたとは到底思えんなッ」
頭目は寝台までフェンを抱えていく。身をよじり、脱出を試みたフェンだったが、逃げる事はできなかった。
寝台の上に放り出されて、あわてて逃げようとするフェンに頭目が覆いかぶさった。
「……こんなおぼこい女が、色仕掛けでジンランをどうにかできたとも思えんしな」
「ですから、言っているではありませんか、雇い主相手に術は使わないと」
それでも、なんとか女盗賊のふりをし続けるフェンが、必死でうそぶく。
「おもしろい、その手管、試してみろ」
頭目の唇がフェンの首筋に触れた。生暖かい舌の感触に、フェンが思わず声をあげた。
「いやあッ!!」
「おいおい、それではどこぞの姫のようだぞ、それとも、それがお前のやり方か?」
馬乗りになり、身動きのできないフェンは、もはや取り繕う事なく不快感を隠さなかった。
「いやあッ! どいてッ!!!」
「ほう? おもしろいな、どかないとどうなるんだ? ああン?」
頭目の手が、フェンの身体に触れる。
衣を乱され、フェンは本気の抵抗をしているが、まるで効き目は無かった。
頭目は興が乗ってきたのか、フェンを嬲る事をやめようとはしなかった。
「どうした? まあ、たまにはこんな趣向も悪くはないが……、おい、女、絲束の賊にいる女は二種類しか居ない、俺が抱いた女か、抱いていない女だ」
頭目の真意にようやく気づいたフェンが本気で抗おうとしても既に遅く、乱れた衣からあらわになるフェンの白い肌に、頭目が痕を残そうと吸いついた瞬間の事。
頭目の身体が、急にフェンにのしかかった。それは、力を失って倒れたかのようだった。
下肢をいましめるようにのしかかっていた男の力が抜けたおかげで、自由の身になったフェンが這い出すと、目の前にはジンランの姿があった。
「大丈夫……ですか?」
フェンは、急激に恐怖から開放された安心感か、ジンランに抱きついた。
「まさか、この男に……」
「いいえ、いいえ……」
自分は汚されてはいないと言うように、フェンはジンランにしがみついた。ジンランの両腕に抱きしめられて、フェンは今自分が置かれている状況も忘れてしがみついた。
頭目に触れられた時にあれほど感じていた嫌悪の感情はもう無かった。
安心できる腕にいるのだという感覚が、フェンの恐怖をとかしていった。
「だから、無茶だと言ったんだ」
「でも、リュセを助けないと……」
「ああ、おかげでリュセを助け出す事はできた、貴女のおかげだ」
耳元で囁くように言うジンランの言葉に、我に返ったフェンは、少し離れたところで照れたように微笑むリュセの姿を見つけたのだった。
「リュセ、違うの!! これは……」
思わずジンランに抱きついた事を詫びようとしたフェンをジンランが諌めた。
「今は時間がありません、気づかれる前に逃げなくては」
時間が夜であったせいか、懐に入り込んだ者へは警戒が薄いのか、三人は誰に見咎められる事なく厩舎の近くまでたどり着いた。
だが、当然ながら、馬は財産でもあり、そこには見張りがいる。
さらにいえば、フェン達が連れて来た馬は一頭だ。三人で一頭に乗るわけにはいかなかったし、絲束の賊に対して、味方として認識されているのはフェンだけだ。
「私が見張りを引きつけるから、その間に二人で逃げて」
今度は、震えずに言う事ができた。
フェンは、先程ジンランに抱きしめられた時に覚悟を決めていた。
二人を逃がそうと。
「何を言っているんですか、先程ご自分の身に降り掛かった事をお忘れか?」
ジンランは声を張らずに言ったが、表情にはあきらかに動揺が浮かんでいた。
「……あれは、油断です、私一人でも切り抜ける事はできました」
ジンランを正視する事ができないフェンは、視線をそらして拗ねたように言った。
ジンランに、自分かリュセを選べというのはこの状況においてはおかしな話だ。リュセを助けに来たのだから、リュセの救出を第一にしなくてはならないのだから。
「そもそも、本来狙われていたのは私なんですから、私が残るのが筋です」
私を選んで欲しい、と、思っても、今それを言い出すのはおかしい。そして、リュセと自分、どちらか残るとして、命の危険がわずかではあるが少ない方は自分なのだという事を。
失脚し、寺へ行った母は言っていた。王家の者というのは、我があるから国があるのでは無く、国があってこその我であると自覚せよと。
国を私するのは容易な事だ。だが、それは国が国として成らない、亡国への一歩なのだと。
私を捨て、国の為に生きる事が王族の努めだと常に言っていた母は、国を私物化しようとする父や、現皇后に疎まれた。
残された自分達兄妹が母の志を継がずしてどうするのだろう。
未来の皇帝となる兄が選んだ女であり、自分が恋をしたジンランの思い人であるリュセを守るのを第一にする事こそ、国の為なのだと。
けれど、フェンは見たくなかったのだ、ジンランが自分からリュセを選ぶところを。
だから自分から降りた。
選ばれなかったのでは無い、選ばせたくなかったのだと思いたいがために。
わずかに残された、それがリュセの矜持だった。




