拐われたリュセ
既にリュセの姿は無く、フェンの部屋は荒らされていた。騒ぎを聞きつけて紫垣王、シュウは即座に追っ手をかけた。ジンランの姿も見当たらず、賊を追っていったであろう事が伺えた。
フェンは、うろたえるフーチンを落ち着かせて、荒らされた室内の様子を探った。
そこで、特徴的な薬入れを見つけた。それは紋章の刺繍されたもので、フェンもよく知っているものだった。
「シャング……」
誰が自分を狙っていたのか、フェンはその可能性について少しも予測できなかった事を悔いた。
フェンは、家令のヨンダオにフーチンを任せると、急ぎ厩舎へ行き、兄の愛馬をそっと起こした。他の馬であれば、夜中すぐには走り出せなかっただろう。だが、紫垣王の愛馬は優れた軍馬であり、またたく間にフェンを目的地までのせて来てくれた。
そこは、フェンに縁談を申し入れていたシャングの屋敷だった。
フェンは開門させる為の理由を探していたが、予想に反して門は開いていた。護身用に帯びた剣を握った。
兄達から気まぐれにてほどきされた程度ではあるが、丸腰でいるよりずっと安心できる。
戦場で通じる域には達していないが、逃げる時間を稼ぐくらいはできるはずだ。
恐る恐る門から入る。奇妙な事に門番や護衛らしい兵が見当たらない。中庭を抜けると、途端に騒がしくなった。血の匂いと、救護を呼ぶ声。
「ああっ、どうか、お助け下さい……ッ」
刀傷を付けられて血を流し、倒れているのは門番だろうか、武装している男を助け起こそうとしているのは家人か侍女か、内働きらしい女性が数人、おたおたと狼狽している。
フェンの姿を見つけた一人が無防備に助けを求めてきた。これらの凶行を起こした者とは違うと認識されたのかもしれない。
「いったい何が……ここはシャングの屋敷では無いの?」
「ああ、猩紅公主様、旦那様が、旦那様が賊に……」
フェンは、この凶行を起こしたのがジンランでは無いかと考えてぞっとした。
リュセを攫った犯人は恐らくシャングだったのだろう。だが、リュセを救いに来たジンランが逆上して屋敷の者に手をかけたのだとしたら。
……私は、ジンランを買いかぶっていたのかもしれない。
フェンはジンランがロクシャンの武官である事に改めて思いを巡らせた。
元々、ロクシャンはシンチェンの領土では無かった。戦の後に併合されて、今もまた、国境拡大と、交通の要衝として、都の武官達とは比較にならないほどの危険と隣合わせな場所で、そこを守り、戦ってきたジンランの武人としてのありようとは、ここまでも苛烈なのだろうか。
ジンランの気持ちが、リュセを奪う為に手段を選ばなかったとしたら。
フェンは、自分の行ってきた事がどれほど甘く、無事であったのはジンランの気まぐれにすぎなかったのでは無いかと戦慄した。
「賊は、……どのような者だったの?」
ジンランの風貌は都では目立つ。紫垣王府を出て真っ直ぐここにたどり着いたとして、姿を偽る為の工作ができたとは思えない。だとすると……。
フェンは、答えを聞くのが怖いと思いながらも確かめずには居られなかった。
「賊は、黒衣でもって顔も隠しておりました……」
家人の言葉を聞いて、フェンは少しだけほっとした。
ジンランの特徴的な金色の髪は、ひと目で記憶に残るだろう。また、賊の装束を準備していたとは考えにくい。
それでも、姿を隠していた以上、それがジンラン『ではなかった』事の証明にはならない。
……そして。
「誰か! 誰か居ないのか?!」
フェン同様、異変を感じたらしい何者かがやって来た。
「フェン様……」
その人物はフェンの姿を見つけて足を止めた。
「……ジンラン」
恐らくは走ってきたのだろう。汗だくのジンランだった。




